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「 雨の幻影 」 プロローグ
2013.08.02 19:30
0
    雨が降っていた。
    それが、最初の記憶だった。

    幼少期の恐らく一番古い記憶。三歳くらいではないかと思う。
    まだ陽が落ちる時刻でもないのか、ほんのりと薄暗い空。
    しとしとと、聞こえる雨音。
    その部屋は、薄く掠れたこの記憶の中でしか知らない。
    向こうには、さほど大きくもない庭が少しだけ見えていた。
    部屋の中に、母が居た。蹲り、声も出さずに嗚咽する後姿を見た。
    もう一人、誰かがそこに居た。いや、居た誰かが、去っていく。母よりも大きなその影。
    それが誰だったのか、思い出そうとしても、顔は分からない。
    泣き咽ぶ母が、幼い自分を抱きしめた。

    外は見えなくなった。それでも雨の匂いが消えない。
    暖かい腕に抱かれながら。
    母の肩越しに、低い棚に飾ってある遠い山の風景の写真を、
    ぼんやりと見ていた事を微かに覚えている。

    充彦は目を閉じた。





    ☆ 第一章 ☆



    ----------------------------------------------------------------------------------------
    「 雨の幻影 」 第一章
    2013.08.09 23:14
    0
      真っ暗な部屋の中で、衣擦れの音と熱い息遣いが響く。
      ここは繁華街の一角にあるホテルの一室。
      明かりはすべて消され、暗闇で男と女が肌を重ねている。
      不意に、女が手を伸ばし、枕元のスタンドの明かりを点けた。
      ふわりと柔らかい光が灯る。
      すぐに男が手を伸ばしそれを消す。
      また女がスタンドを点ける。
      男がまた消す。
      女がもう一度手を伸ばそうとした時、男がその手を掴み引き寄せた。
      名を呼ぼうとした唇を塞ぐ。
      暗闇の中で、脳裏に浮かぶ面影が消えない。



      「え?」
      沈黙の後、充彦の口から出た言葉はそれだけだった。
      事が終わり既に明かりは点いていた。
      ベッドに身を委ねてぼんやりと煙草の煙を吐く充彦を横目に、美咲は身支度を済ませていた。充彦は身を起こした。
      「もう、終わりにしよう」
      そう告げた美咲は真っ直ぐに充彦を見詰めている。
      「ねえ、何か言ってよ」
      いつものように、気丈に、しかし決して責めるような口調では無かった。それでも沈黙を続ける充彦に、美咲の声が震える。
      「どうして何も言ってくれないの」
      美咲の瞳から堪えていた涙が溢れた。
      充彦が手にしたままの煙草の灰が、今にも落ちそうになっていた。
      「藤波君」
      充彦は黙っていた。

      美咲は、部屋を出て行った。
      煙草の灰が、シーツの上に落ちる。
      充彦は、何も言わなかった。言えなかった。
      ただ黙って、傍らの灰皿に煙草を揉み消した。
      またか、と充彦は自嘲的なため息をついた。


      時は一九九九年。藤波充彦二十一歳、大学四回生の秋の出来事。


      充彦は外に出た。
      陽はとうに暮れている。十月だというのにやけに蒸し暑い。
      充彦は所在も無く、一角のホテル街からざわめく繁華街の方へぶらぶらと歩く。

      この頃、充彦は藤波の姓を名乗っていた。
      歩きながら、美咲の最後の表情を思い出す。付き合っていて、初めて見る涙だった。
      美咲と付き合い始めたのは、去年の今頃だったと思う。
      一回生の時から同じサークルに所属していた同級生だったが、ちょうどあの頃から男女の仲へと関わりを深めていったはずだった。
      美咲はさっぱりとした気持ちの良い性格で、女性特有のべたべたした感じが無い。充彦や他の男性とも対等に接し、またそれだけの知性と教養を兼ね備えていた。明るくさわやかな美人で、サークルの仲間にも愛されていた。
      そんな美咲と充彦は気が合い、自然と行動を共にするようになり、気付けばパートナーと呼べる間柄になっていた。
      四回生になり早々に、互いに希望する企業に就職を決め、卒業まであと半年を切った今。
      これから新しい環境に進み、同じ企業では無いにしろ、同じ業界に身を置く事になっているのだから、これまで通り戦友のような関係を続けていけるのだろうと、漠然と充彦は思っていた。
      しかし、美咲は見抜いていた。充彦の心が自分に無い事を。
      今後、互いに社会人になれば会う時間を作るのも難しくなる事は予想できたが、そんな事は問題では無かった。
      先刻の光景が頭に浮かぶ。
      「私は、私の事を、ちゃんと見てほしいの」
      美咲の頬を涙が伝う。
      「あなたの心の中に、私は居ないのよ……」
      充彦を真剣に愛している美咲だからこそ、分かってしまうのだ。そして充彦にはその美咲の思いが痛いほど分かる。
      だがどうにもできないのだ。充彦自身にも。
      「ごめんなさい。私はもう耐えられないの」
      内に抱えた深い哀しみを抑え、最後まで気丈に、冷静に思いを告げた美咲の声が耳の奥に残っていた。

      ここひと月程、美咲の態度が今までとどこか違ってきていた事には気付いていた。しかし充彦は、気付いていても何も言おうとはしなかった。
      それでも交際は続けていたのだが、その結果が今訪れた。
      充彦を、後悔と、美咲を苦しめてしまった自責の念が襲う。
      いい女だと思っていた。充彦なりに大切に思い、接してきたつもりだった。
      楽しい思い出もいくつもあったはずだ。それなのに自分は何をしてきたのか。
      思い返せば、初めて、一年もった恋人だった。

      大学に入学してから美咲と付き合い始めるまで、何人の女性と付き合っただろう。
      成績は優秀、すらりとした長身に端正な顔立ちの充彦は、否応無しに他人の目を惹いた。充彦の方は、無意識に他人と一線を引いている事が多いのだが。
      それでもサークル活動やゼミに積極的に参加していた事もあり、充彦には男女問わず友人は多く、仲間で朝まで飲み明かす事もあった。
      ただ女性と交際するとなると、誰とも長続きする事が無い。
      理由は充彦には分かっていた。充彦自身が、女たちに心を開いていないのだ。
      しかし、だからこそ美咲のような女性は特別だったのだ。
      他の女たちと違い、最後まで充彦を「藤波君」と呼んだ美咲。
      対等に互いに尊重し合えるパートナーとして、最良の女性だと思っていた。
      一年付き合えたのだから、もう少し。もう少しで、心を許し、傍にいるだけで心から安らげる存在になれるのではないか、そんな淡い期待を抱いていたのだ。
      そこまで考えて、充彦はふっと息を吐いた。
      いや……違う。美咲も含めて。初めから、付き合った女の誰も愛してなどいなかったのだ。



      一瞬、頬に冷たい感触がした。
      見上げると、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
      「雨か……、」
      掌を開き、小さく呟いた。
      蒸し暑い訳だ。
      しばらくぶりの雨に充彦は傘も持ち合わせていない。
      しかし構わず歩き続けた。
      そんな気分だった。

      少しずつ雨足が強くなってきた気がする。
      雨の中、気付くと充彦はどこか知らない街角に迷い込んでいた。
      当ても無く、ぼんやり考え事をしながら歩いていたせいで道に迷ってしまったようだ。辺りを見回しても知らない風景で、周りには小さな建物が雑多に立ち並ぶ。人通りはあまり無い。
      しかし、ここは都会のど真ん中の繁華街である事に変わりは無く、そのうちどこかに出るだろうと、充彦はそのまま歩き続けた。

      ふと、小さな看板が目に入った。居酒屋のようだった。
      それはどこか古びた山小屋のような外観で、曇りがこびり付いた窓からうっすらランプの明かりが見える。中からは大勢の大きな話し声が楽しげに聞こえていた。どうも日本語でないような言葉も聞こえる。
      何度も訪れたこの街にこんな店があったとは、全く気が付いていなかった充彦は、軽く驚きを覚えた。
      普段の充彦なら、そんな店に立ち寄る事はまず無かった。
      だが、理由は分からない。
      何かに引き寄せられるように、充彦はその店の扉に手を伸ばした。

      からん、とドアベルの軽い音がして扉が開いた。





      第一章 了


      ☆ 第二章 ☆




      ----------------------------------------------------------------------------------------
      「 雨の幻影 」 第二章
      2013.08.16 23:48
      0
        充彦は、名も知らぬその店に足を踏み入れた。
        木製の壁と床に、オレンジがかったランプの明かりが広がる店内は、外から見た印象と変わりは無かった。
        さほど大きくもないその空間に、テーブル席が五、六席と、奥のカウンターにも席がある。テーブル席はほぼ満席で、客のほとんどが外国人のようだった。
        わいわいと酒を飲み笑い合い、充彦が入ってきても、軽く目に留めただけでまた仲間と話し始める。充彦はカウンターに座った。
        「いらっしゃい」
        カウンターの中から男が声を掛けてきた。雨に濡れたまま入ってきた客に少し驚いたようだったが、充彦はその気遣いだけを受け取る。
        「何にする?」
        低い声だが、華奢な身体で一瞬女かと見紛う中性的な男だった。
        澄んだ瞳が充彦を見詰める。思わず吸い込まれるような深い瞳だった。
        充彦は男の後ろの棚を少し見回し、
        「ターキーをロックで」
        それだけ言うと、はいよ、と言って男は酒を作り始めた。

        「どうぞ」
        男が充彦の前にグラスを置いた。
        ひと口、口を付けると、癖のある香りが喉に沁みる。充彦は軽くため息をついた。
        美咲とも、何度も酒を飲んで語り合っていたと思う。だが今は。
        後ろでは、相変わらず大きな声で喋りながら、客が酒を飲んでいる。
        何気無く見てみると、日本人らしき客もいない訳では無いが、そこにいる人間の人種や国籍は様々のようだった。肌の色も様々で、飛び交う言葉も聞きなれない言語が多い。
        なぜか今の充彦には、その騒がしさが不快では無かった。
        気付くと、カウンターの中に居た男がテーブル席で注文を取っている。どうやらこの店はこの男が一人でやっているらしい。黒い髪に黒い瞳、充彦と同じ肌の色で、日本人である事は間違い無いようだ。しかし、充彦よりは年上なのだろうが、随分若く見えるその男は年齢もよく分からなかった。
        すぐにカウンターに戻ってくると、シェーカーを取り出し何か飲み物を作り始める。
        充彦はその様子を見ながらグラスに口を付けていたが、ふとカウンターに飾ってある写真立てが目に入った。手に取ると、白い雪に覆われた山脈の風景写真だった。
        日本の山には見えなかったが、どこだろうと考えていると、カウンターの中から男が声を掛けてくる。
        「ああ、お客さんでフォトグラファーの人がいてね。きれいに撮れたからって、くれたんだ」
        へえ、と思い、傍らに写真を置く。
        「どこだっけなあ、スイスとか言ってたかなあ。あんた分かる?」
        「ああ……」
        これは多分、ユングフラウだ。随分前に、写真を見せてもらった事がある。
        昔、あれはいつ頃だっただろうか。美咲の事を思い返していたところだが、さらに過去へと意識が遡る。
        今の家に来る前、まだ前の家に母と二人で暮らしていた頃か。
        そんな事を思い出したのも久しぶりだった。
        不意に訪れた懐かしさに、充彦はあの頃の記憶を辿り始めていた。
        煙草を取り出し火を着けると、カウンターの男が充彦の前に灰皿を置いた。



        物心が付いた頃から、母と二人で暮らしていた。
        母親の名は泰子、父親の名は、充彦は知らない。

        東京の片隅にある、小さな街の小さなアパートで。
        充彦は、母の旧姓である飛島の名で育った。
        父がどんな男であったのかは、母は語らなかった。写真も無い。
        小学校に上がる頃には、充彦は自分が特殊な環境にいる事を理解していた。
        子供心に父の事を問いたい思いはあったが、細い母の後ろ姿に、何も訊く事はできなかった。
        掠れた記憶は、今より鮮明だったのかもしれない。

        母はいくつも職を掛け持ちながら働き女手ひとつで充彦を育てていたため、家を空ける事が多かったが、いつも充彦へは確かな愛情を注いでくれていた。忙しい合間に、母が共に過ごしてくれる僅かな時間は、少年だった充彦にとって宝物のような時間だった。
        その母の思いを理解し、充彦は寄り添うように支えていた。
        よく勉強するように言われると勉学にも打ち込み、常にトップの成績を保つ。母が褒めてくれる事が何より嬉しかった。
        中学生の頃には、誰に言われた訳でも無く、家計を助けるために新聞配達を始めた。母が昼も夜も働いてくれていたお陰で、充彦は不自由無く暮らしていたが、少しでも何かをしたかったのだ。
        そんな充彦の身体を気遣い、感謝してくれた母に、充彦は笑顔で応えた。
        そして、それでも充彦は成績を落とす事無く、成績優秀者だけが入れる特進クラスに進級する事になっていた。

        その頃だった。充彦があの山の写真を見せてもらったのは。
        何かを物語るようにそっと置かれていた、母が大切にしていた遠い山の風景とは、違う山の風景。

        ある時期、母と二人で暮らすあのアパートに、その人がよく出入りしていた。
        母の知人というその人を、「ヒロさん」と母が呼んでいたため、充彦もそう呼んでいた。
        何かと母と充彦に付き添い、気に掛けてくれていた男だ。
        充彦には、彼が母と同じくらいの年齢に見えていた。
        「充」と彼は充彦をそう呼んだ。

        学校では充彦にも仲の良い友人達がいたが、家に帰れば一人になる。
        母が家を空ける間も家では勉強に励む毎日だったが、ちょうど充彦が小学校の高学年くらいから高校受験までの間、時折そのヒロさんが勉強を教えに来てくれていた。彼は勉強だけでなく、時勢や世の中の多くの出来事も、語り教えてくれた。それが、成長した充彦の未来へ、多大に影響を与えた事は間違い無い。

        親しく充彦に話す彼と接し、母が大切にしていた写真を思い出す。
        充彦は、母が何も話さない父の面影を、この写真に見ていた。
        自然と、ヒロさんと話しながら、その写真を眺めている事が多くなっていた。
        それに気付いたヒロさんは、充彦が山に興味を持ったと感じたらしく、その写真を見せてくれたのだ。
        母の写真とは違ったが、ヒロさんの写真に写る山の名を教えてくれた。
        そして、自身が山男であった事を明かし、山岳についてもよく話してくれるようになる。
        そのうち充彦を山へと誘い、最初は半日で登れる小さな丘から。
        勉強の息抜きに、と徐々に高い山へと登り、ヒロさんは充彦に登山のいろはを教えた。
        なんでも知っていて、なんでもできる男だった。日常会話程度なら英語も話せた。
        ヒロさんに連れられある山に登った時、こんな事があった。

        二人でちょうど麓まで下山してきた時、一人の白人の男性が、何事かを道行く人に訴えている。
        しかし誰も言葉が分からないらしく、立ち止まって聞いてやる者がいない。
        充彦が戸惑っていると、ヒロさんが躊躇無く近付いて行き、話し掛けた。
        するとその男性は何かを必死で訴え、ヒロさんはうんうんと頷く。
        そして少し会話した後、男性は笑顔で立ち去って行った。
        「どこかに大事なカメラを置き忘れたらしいよ」
        そう言いながらヒロさんが充彦の元に戻って来る。
        「『日本人はとても親切だと聞いた、だからきっと自分の手元に戻ってくるに違いない』て言ってたよ。ドイツ語で」
        「え、ヒロさんドイツ語分かるの?」
        何気無いその言葉に思わず充彦が尋ねると、
        「うん。聞くだけだったらね。あの人に俺の英語が通じて助かったよ」
        どうやらさっきの男性は、英語を聞き取る事ならできたという事らしい。
        それで、少し戻ったところにあったロッジで問い合わせるように勧めたそうだ。確かに、日本なら落し物は届けられる事が多いからね、とヒロさんは言った。
        「さすがにドイツ語は喋れんからなあ」
        からからと笑い、すたすた歩き始めた背中に、慌てて充彦が付いて行く。
        ヒロさんなら、誰のどんな言語も解する事ができるような気がした。

        充彦はヒロさんを心から尊敬していた。
        だが、この男が何者なのか、母も、ヒロさん自身も決して充彦に話す事は無かった。
        ただ、母の古い友人だと。
        いつしか充彦は、もしかするとヒロさんは自分の父親なのではないか、と思うようになっていた。
        しかし、訊けなかった。母にも、ヒロさんにも。
        訊いてしまったら、何かが崩れてしまう、そんな気がして。
        もし本当に父親だったら、なぜ他人のふりをしているのか。
        もし父親でなかったら、なぜこんなに良くしてくれるのか。
        まだ少年だった充彦には判断できなかった。
        やがて充彦は、多感な思春期の年頃へと成長していく。

        充彦中学三年の夏。
        都内有数の公立の進学校を目指し、充彦は受験勉強に励んでいた。
        特進クラスには夏休みも授業がある。
        学校では、充彦に想いを寄せてくる女子もいたが、今はそれどころでは無かった。
        経済的にはかなり厳しかったが、母が無理をして充彦を塾へも入れてくれた。
        そして休日には、ヒロさんが変わらず勉強を教えに来てくれる。山は受験が終わるまでお預けな、と笑い、たびたび飛島の家を訪れていた。

        しかし、ちょうど二学期が始まりしばらくした頃。
        ヒロさんが、なぜか家に来る回数が減った。充彦が塾に行っているせいもあるのだが。
        時々は来てくれるが、いつの間にか、どこか母とヒロさんの間の空気が、少しずつ変化していく事に充彦は気付いていた。
        母と接するときのヒロさんが。少しずつ。
        そのうち、ヒロさんは母と顔を合わせないようになっていた。
        充彦の成績は変わらずトップだったが、やはり受験のプレッシャーはある。
        ヒロさんの変化は気になっていたが、何も問う事はしなかった。

        そして、翌年二月。
        見事目指す公立の進学校へ、充彦はトップの成績で合格した。
        だが、ヒロさんの姿は、もう飛島の家には無かった。
        高校受験のその日から、ヒロさんが充彦の前に現れる事は無かった。

        充彦は母の次に、誰よりヒロさんに志望校合格を報告したかった。
        最後に会ったのは、受験の前日。がんばれ、と力強く肩を叩いてくれた、その時。
        ヒロさんに会えなくなって改めて、充彦は気付いた。
        自分がヒロさんの連絡先も、本名も、何も知らない事に。
        連絡しようにも電話番号も分からない。探すにしても当ても無い。
        思い切って母にヒロさんの消息を訊いたが、母は、彼は仕事で遠くに行ってしまった、とだけ答えた。
        せめて、念願の高校に合格した事を伝えたかった。あれほど充彦に多くの事を教え、導いてくれたのだから。
        しかし、母はヒロさんの何も教えてはくれなかった。
        充彦はただ心の中で、ありがとうございましたと、遠い影に頭を下げる事しかできなかった。

        そして、慌しく中学の卒業式が目前に迫ってきた、その日。
        充彦の受験の日以来、珍しく、母が休みを取っていた。
        「充彦。話があるの」
        座って本を読んでいる充彦に声を掛けた母は、いつに無く真剣な表情だった。
        充彦の前に座る。
        「母さん、結婚しようと思うの」
        一瞬、面影が頭を過ぎる。真っ先にヒロさんの顔が頭に浮かんだ。
        しかし、母がヒロさんの事を言っているのでは無い事は、瞬時に悟った。
        「母さんが働いてる店によく来る人でね」
        「とても立派な人よ」
        相手の男は資産家で手広く事業を営んでいて、人柄も社交的で男らしい人だと母が言う。
        充彦の心の中で、母の結婚相手がヒロさんであってほしいという、淡い願いは打ち砕かれた。
        充彦は答えた。
        「うん。俺はいいよ。その人と結婚しなよ」
        何も訊かなかった。母が決めた事なら、何も言うつもりは無かった。
        だから、ヒロさんは。
        去年の秋頃から様子がおかしくなってきたのはそういう事だったのか。

        母とヒロさんが付き合っていたとは思えない。
        忙しく働く母にそんな時間は無かったはずだ。
        ヒロさんも、母に対しては決して男女の感情を感じさせる事は無かった。
        互いに、身内以上の信頼関係があったのは確かだ。
        しかしそれが男女のそれとは、完全に一線を画していた事は充彦にも分かった。
        ヒロさんが何者だったのか、今はもう何も分からない。

        「充彦、ありがとう。分かってくれて、嬉しいわ」
        母が微笑んだ。もう随分見た事が無かった、心からほっとしたような、幸せそうな笑顔だった。
        母には母の思いがあるのだ。大金持ちの男と結婚するのは、充彦を裕福な家庭に置きたいという願いも多分にあるはずだ。
        そして今その話を切り出したのは、充彦が受験を終え心が落ち着くまで待ってくれていた事も分かる。
        充彦は母の人生を思う。
        自分をここまで苦労して育ててくれているのだ。
        その男と結婚すれば、母も少しは楽な生活を送る事ができるだろう。
        今のように、昼も夜も無く働くような生活はしなくてもよくなるだろう。
        何より。母がそれで幸せになるなら。
        そう思い、充彦は心の中でざわめく思いを、静かに封じ込めた。
        母の恋には、そしてその想いには、何も触れずに。
        母の決めた事だ。聡明な女である母が、選んだ事なのだから。
        それでいい、と。
        充彦は自分を納得させた。

        ただ相手の男は、随分年上のようだった。
        そしてもうひとつ。
        中学生の娘がいるそうだ。
        向こうにも連れ子がいるのか。
        母が正式に入籍すれば、その男の家で共に住まなければならなくなる。
        間も無く中学を卒業し、四月からは高校に入る。充彦は、にわかにかき乱された己の道に、思いを馳せた。



        母 泰子だけが知っていた事がある。
        ヒロさんの本当の名は静原博。充彦の実の父親の実弟だった。
        父は、泰子が充彦を産んですぐに、事故であっさり死んだ。
        十数年前は、父も博も世界中を飛び回って働いていて、兄弟で海外の山岳をいくつも制覇するほど山を愛していた。
        その頃、当時通訳をしていた泰子と知り合い、充彦の父と泰子はすぐに深い仲になる。
        ただ父には妻子があり、泰子が身ごもると小さな一軒家を宛がった。
        そして数年後、父は一人で遠い外国の山脈に挑み、二度と帰らぬ人となった。
        悲しみの中、それでも山を恨む事をしなかった泰子に、博は衝撃を受ける。
        あの人が愛した、そして今でも眠る場所だから、と泰子は愛しそうにあの写真に触れた。
        その後、泰子は自らその家を出てアパートに引っ越し、誰にも頼る事無く暮らし始めたのだった。
        そのすべてを知っていた博は、仕事を時間の余裕を作れる職に変えると、兄の残した充彦と泰子の行く末を見守ると心に決め、二人にずっと寄り添っていたのだ。
        心の奥底で、泰子に対し静かな恋心も抱いていた。
        だがその想いは成就する事無く、泰子は別の男との結婚を決める。
        博は、泰子と充彦の幸福のみを願い、二人の前から姿を消したのだった。

        最後まで、そんなヒロさんの真実を、充彦は知る由も無かった。

        そして三月の終わり、少しずつ暖かくなってきた頃。
        充彦は、初めて母の結婚相手に引き合わされた。
        都心近くにある、大きな屋敷の応接間に母と共に通されると、五十歳を過ぎているようには見えない精悍な顔つきをした男と、中学生くらいの女の子が、そこに居た。
        挨拶をして、頭を下げる。男は自分と娘の事を軽く紹介した。資産家の当主に相応しく、立派な身形に鋭い眼光で、傑出した人物という印象だった。
        その横で、大きな目を伏し目がちにして充彦と母を見ていた娘は、対照的にとても大人しそうな子に見えた。
        それが、義理の父となる藤波京介と、妹となる詩織であった。
        一九九三年、高校入学を控えた充彦十五歳の春。母が結婚した。
        すぐに入籍したのは、高校に入学してから充彦の姓が変わる事を避ける配慮だった。
        詩織は十三歳、この春から中学二年生であった。



        軽い音を立ててグラスの氷が揺れる。
        店の中は相変わらずの騒がしさで、誰かの大きな笑い声で充彦はふと我に返る。
        目の前には、二杯目のロックが空になりかけていた。
        随分と長く昔の事を考え込んでいたが、傍らの写真立てを見て、ああこれのせいだったと思い出す。カウンターの中では男がグラスを拭いていた。
        もう一杯頼もうかと思っていると、後ろから、やけに大きな声が近付いて来た。
        「マコ、おかわり」
        カウンターの充彦の横に女が立った。
        見るとその若い女は、浅黒い肌に黒い髪。彫りの深いその顔立ちは中東系に見えた。その割りに日本語は流暢だった。連れと思しき何人かが、「リー」とか「リリー」とか女を呼ぶと、今度は聞き慣れない外国語で何事か言い返してまた大きな声で笑い合う。
        そう言えば、さっきからその「リー」と呼ぶ声は聞こえてきていた。
        「はいはい、すぐ持ってくよ」
        『マコ』と呼ばれたカウンターの男がやはり大きな声で返す。
        「ごめんね、うるさくて。いつもこんな感じなんだ」
        苦笑いしながら、『マコ』が充彦に言う。呼び名まで女のようだ。
        「いや、構わないから」
        そう答えた充彦に、横の女が話し掛けてきた。
        「何暗い顔して飲んでんの。お酒は楽しく飲まなきゃ」
        何も言えず、笑顔だけ返した。マコが軽く女を嗜るが、女は気にも留めず、
        「あんた、名前なんて言うの」
        充彦に笑顔を向けた。
        「リリー、今日はご機嫌だね」
        またマコが苦笑いをする。
        「あんたは、リリーって言うんだ」
        充彦が女に言った。すると女は大袈裟に肩を竦めて、首を振った。
        「ううん。みんなはそう言うけど」
        マコが差し出したグラスの酒を受け取りひと口飲む。
        「ほんとは、」
        笑って、女が言った。

        「え?」
        充彦は思わず訊き返した。





        第二章 了


        ☆ 第三章 ☆




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        「 雨の幻影 」 第三章
        2013.08.23 23:50
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          改めて充彦は女の顔を見た。
          「シオリっていうのよ」
          女はカウンターに肘を付き、充彦を見詰め返す。
          シオリ……、詩織。妹の名と同じ。
          日本人なら珍しい名では無いが、なぜ女のその風貌からその名が出てくるのか。
          全く予想もしない返答に、戸惑っている充彦の肩を女が叩く。
          「やだあ、また深刻な顔して」
          いや、と充彦はまだ少し動揺したまま呟いた。
          「なんで、あんたがそんな名前なんだ」
          よく考えれば失礼な質問だったが、思わず口から出た。
          だが、女は全く不快そうな顔をする事も無く答えた。
          「母さんが、日本人だったから」

          なぜそんな状態になったのかはよく覚えていない。
          気付くと充彦は、リリーと呼ばれているその女と、彼女の仲間の男女四人と共にテーブル席で飲んでいた。
          恐らく二十代くらいだと思うがその若者達はやはり外国人で、リリー以外はアジア系の風貌だった。リリー自身も、フィリピンから入国してきたと言う。皆、出身はばらばらなのだが、この店で何度か顔を合わせるうちに意気投合したらしい。彼らは主に英語で話しているが、個人個人で母国語は違うらしく、それぞれの訛りもあるようだった。
          充彦は、英語はあまり得意ではない。昔ヒロさんに少し教えてもらったり、サークルの活動等で何度か渡航した経験があったりする程度で、決して流暢には話せないのだが、彼らは嫌がりもせず、初対面の充彦に片言の日本語交じりで楽しそうに話し掛けてくる。
          しかしリリーだけは、なぜかよく慣れた日本語を話せていて違和感があった。彼女の話では、父親がエジプト人で母親が日本人なのだそうだ。
          それがなぜフィリピンから日本に渡ってきたのか理由はよく分からない。
          皆が呼んでいる「リリー」は愛称で、彼らは愛称で呼び合っているようだ。
          充彦の名も教えると、何かわいわいと話し合い始めた。充彦には早口過ぎて聞き取れなかったが、そのうち口々に「ミッチャン」と言い始め、どうやらそれが充彦の愛称になったようだ。
          子供の頃ならまだしも、この歳で見ず知らずのしかも外国人からそう連呼されると何とも気恥ずかしかったが、酔いにも任せて充彦は受け入れた。いや受け入れさせられた。そして、それも楽しんでいる自分に気付く。
          思えばこれまでに海外を訪れた時は、ほぼ日本人のみのグループで行動していたため、これほど外国人と密に接するのは初めてだった。日本に居ながらにして不思議な感覚がある。
          最初は充彦も戸惑っていたのだが、徐々に慣れ始め、しばらくするとすっかり彼らの輪の中に入っていた。他の席の客も常連で顔見知りらしく、気軽に声を掛けてくる。
          飲みながら、互いに身振り手振りも交えてコミュニケーションを取っていて、充彦は思う。
          わざわざ母国を出てこの遠い島国の日本にやって来たからには、それぞれに深い事情もあるのだろうが、皆ここでは楽しく酒を飲み、ここで共有する時間を謳歌している。そう感じた。
          ここで共に過ごす者達に、出身や経歴の違いなど何の関係も無いのだ。
          充彦は、久しぶりに大きな声で笑った。
          そして夜半まで彼らと酒を酌み交わし、美咲の事も詩織の事も、琥珀色の酔いに飲み込まれていった。
          しかし、よりによってなぜシオリという名なのか。
          リリーに、理由を訊きたいと思っていた。



          深夜。
          充彦は寝息を立て深く眠りに落ちていた。
          これほど酔うまで飲んだのは初めてかもしれない。
          どうにも出来ず、仕方が無いと受け入れていたつもりだったが、美咲との別れはやはり充彦の心に重く圧し掛かっていたのか。
          一枚の写真をきっかけに、母と二人で暮らしたあのアパートでの出来事を思い返していたせいか。
          突如として現れた、妹と同じ名の女と出会ったせいなのか。
          無意識に、できるだけ思い返す事を避けていた。そして忘れられるはずも無い。
          充彦は過去の夢を見ていた。



          高校入学を間近に控えた充彦は、母と共に藤波の屋敷に移り住んだ。
          正式に藤波家の人間として、義理の父京介と、妹詩織との暮らし始まる。
          京介は、あの最初に挨拶に行った日こそ客扱いだったが、以降は母と充彦を呼び捨てで呼び、いかにも亭主関白といった振る舞いであった。
          週に何度か家政婦が来て、掃除等の家事をしていった。

          京介と母はすぐに入籍はしたが、互いに子連れという事もあり、結婚式や披露宴といった大袈裟な事はせず、身内へのお披露目の会合のみを行う事になっていた。充彦と母が引っ越した時にはもう日取りが決まっていて、新学期が始まる前、春休みの間に行われた。
          家の中にある、大広間と言える大きな部屋にも圧倒されたが、充彦は集まったその人数に驚いた。直系に当たる親族はいないそうだが、親類縁者と呼ばれる者達が二十人以上集まったのだ。
          さすがに、初めてここに挨拶に来た時同様、充彦は緊張を覚えた。
          ただそのような中で、母と充彦はかなり好奇の目で見られたが、何かいびられるというような事は一切無かったので、内心で安堵する。ドラマや小説の中ではよくある事のように描かれるが、充彦が考えていたより、嫌な思いをする事は無かった。母も、辛く当たられているようには見えなかった。
          と言うより、京介自身が相当気難しい男らしく、親族連中はそれの後添えとして入った母に感謝しているような節があった。充彦にも、どちらかと言うと同情的な目を向けられる。これがあの京介の息子になった子かと、何か言いたそうで何も言わない。その表情に、充彦は何と応えてよいか分からず、とにかく不機嫌な顔だけはしてはいけないと思っていた。
          母は、京介の横で、気を使いながらも笑顔で受け答えしていた。
          詩織を見ると、挨拶こそきちんとした後は、やはり大人しく親戚達に話し掛けられれば答える、という態度であった。
          そして、二時間程でその会が終わると、集まった親戚達はあっと言う間に帰っていった。
          後はいつもの家政婦と、その日だけ特別に呼んだ使用人達が後片付けをする。
          何か手伝おうかとも思ったが、それは要らぬ気遣いのようだった。彼らは仕事でここに来ているのだから。

          「ありがとう、充彦。疲れたでしょう。大丈夫?」
          使用人達も全員引き上げていき、充彦がようやくほっとひと息ついた時、母が声を掛けた。
          「いや、俺は。母さんこそ」
          確かにこの全く経験した事の無い状況には精神的にもかなり疲れたが、母の方がよほど疲れたはずだ。
          「ううん、母さんは大丈夫よ。皆さんがいい方ばかりでよかったわ」
          そして、まだこの藤波の家に来たばかりなのに、親戚達に対して、充彦がにこやかに対応していた事に感謝してくれた。
          母の言葉は嬉しかったが、それよりも今夜はゆっくり休んでほしいと伝え、充彦は、宛がわれたばかりの自室に戻った。この部屋も、未だ慣れない。

          翌日、小遣いを振り込んでおく、と京介から銀行のキャッシュカードを渡された。思わず母の顔を見ると、黙って頷いていた。戸惑いはあったが、充彦はそれを受け取る事にした。
          しかし数日後、充彦が残高を確認すると、えっ、と驚くほどの額だった。これは多過ぎると返そうとしたが、渡したものをどうしようがお前の勝手だと言い京介は取り合わない。母に相談してみたが、父親としての気持ちだから突き返すのも失礼になると、受け入れるように諭された。
          無論、充彦はこの時既に新聞配達は辞めていたが、これには困惑せざるを得なかった。
          普通の高校生なら無条件に喜ぶのだろうが、これまで母と二人で質素な生活をしていた充彦には、大きな抵抗があった。本来なら、高校生活が始まり少し落ち着けば、アルバイトをして家計を支えるつもりでいたのだ。この扱いは簡単には受け入れ難いが、京介の気遣いを理解してほしいという母の思いも分からなくは無い。
          それならと、充彦は自分の感覚が狂わされないように、これを冷静に受け止め自分を律する事にした。
          くれると言うなら貰っておく。しかしそれを無闇に浪費する気は無かった。
          この先何が起こるか分からないのだ。
          そして、数日後には高校の入学式を迎え、新学期が始まった。
          京介は登下校に送迎の車を手配しようとしていたが、充彦は固辞した。
          確かに、都心に近い藤波家に移ったせいで、充彦が通う高校は家からいくらか遠くなった。しかしだからと言って、車での送迎などしてもらう訳にはいかない。

          このひと月ほどで。
          たったひと月で。
          ある程度予測はしていたが、これほど住む世界が変わるという事を充彦は実感させられた。正直な心情として、恐いほどのものがあった。
          これまでとは考えられないような広い屋敷に住み、家政婦や使用人達がたびたび家に出入りする。
          何もしなくても充分過ぎる程の小遣いを与えられる。
          あまりと言ってはあまりの環境の変化である。
          充彦は、それまで送ってきた母と二人での慎ましい生活に何の不満も感じていなかった。今そのすべてが変わっても、そこに過度に甘える気にはやはりどうしてもなれない。
          激変した環境の中にあって、京介や充彦達に懸命に尽くしている母を見る。
          結婚と同時に仕事を全て辞め専業主婦になったが、急に贅沢になる事も無く、妻として母として、藤波の家と新しい家族の生活のために、必死に努めるその姿を。
          家でも学校でも、新しい生活に早く慣れるようにと、充彦は自分に言い聞かせていた。



          毎朝、広い居間のテーブルで朝食を取る。
          朝は家政婦ではなく母が食事を作るのだが、家族四人で食卓を囲んでいても静かなものだった。
          母はいつも笑顔を絶やさなかったが、京介は食事の時も仕事の話と、詩織の立ち居振る舞いへの小言しか言わない。その空気の中では、充彦もあまり積極的に話す気になれずにいた。しばらく経っても、京介に対する抵抗が消える事は無かった。
          ただ充彦は、初対面の時から、京介の事を努めて「お父さん」と呼ぶ事にしていた。あの挨拶に来た日、初めてそう口にした時の、嬉しそうに涙ぐんだ母の顔が忘れられない。さすがに打ち解けた話し方はできないが、そう呼ぶ事は、そもそも実の父親の顔も知らない充彦にとっては、さほど辛い事でも無かった。
          しかし。
          充彦は、詩織の事を気遣うように心掛けていた。
          詩織は相変わらず大人しく口数が少ないが、その表情や振る舞いから、充彦と同じ連れ子の立場である彼女も、少なからず抵抗があるように充彦は感じていた。詩織は中学二年生、思春期真っ只中と言う事もあり、それは当然の事だと思っていた。
          詩織は、当初から母の事を「泰子さん」と呼んでいた。
          詩織の実の母は数年前に病死したらしい。それを考えると、充彦とは違い、詩織の心には実の母の面影が今も鮮明に残っているであろう事は容易に想像できた。
          やはり、母が自分の父親と正式に入籍してからも、「お母さん」とは中々言い出せないようだった。充彦の事も、なんと呼んでいいのか戸惑っているように見えた。母と充彦にも常に敬語で話す。
          母は、「詩織ちゃん」と微笑み掛け、充彦も最初はそう呼んでいた。

          しばらく経ち、充彦の高校生活は順調に進んでいた。
          家庭の事情はともかくとして、充彦は勉強を疎かにする事無く、トップクラスの成績を維持していた。
          またこの高校には、非公認ながら山岳サークルがあったので所属してみる事にした。日々の体力作りの他はあまり頻繁に活動する訳では無いのだが、山に行く時はいつもヒロさんと一緒だった充彦には、同年代の友人達との活動は新鮮な体験だった。家ではまだ落ち着かないが、学校では、同じクラスの同級生の中で気の合う友人もでき、部活での仲間もできた。
          詩織はどうなのだろうと様子を見ていると、中学生としての毎日をそれなりに過ごしているようだった。詩織は小中高一環の私立学園に通っている。小学校の時は共学だったそうだが、中学からは女子校だそうだ。学校の他は、週に何度か塾に行っているらしかった。
          学校や塾では友達もいるのだろうが。
          家では、まだ母や充彦に対する遠慮や戸惑いがあるのか、やはり物静かだ。それは充彦にしても、突然できた『妹』の存在に、兄としてどう接すればいいのか見当も付かなかったのが正直なところだ。
          京介の態度は相変わらずだ。母は緩やかに詩織と接している。母も詩織の心情を慮っているようで、性急に距離を近づけようとはしていない。焦る必要は無いと思っているのだろう。
          充彦は母のためにも、詩織の事をよく考えるようになっていった。
          やはり、自分の方が詩織より年上でもある。
          決してこちらの気持ちを押し付けるのでは無く。
          どうすれば、家族として、お互い心穏やかに暮らしていけるのか。

          そんな思いを抱えながら過ごす毎日だったが、一学期も半ばの六月になったある日の事。
          ずっと考えていた充彦は、思い切って「詩織」と呼び掛けてみた。
          夕食の後、居間を出たところを呼び止め、二人きりの時だった。
          「詩織。明日から、朝、一緒に学校に行かないか」
          まだどうすればいいかは分からないままだったが、まず一歩踏み出さなければ前へ進めない。ようやく、充彦もそう腹をくくれるところまで来ていた。
          すると詩織は少し驚いたような顔をしたが、何も言わず、自室へ戻って行った。
          急に打ち解けろと言うのも無理な事だと分かっていた。充彦自身もまだぎこちないのだから。やはり時間を掛けて接していこうと充彦は思った。
          しかし翌朝、充彦が登校しようとしていると、詩織の方から声を掛けてきた。
          「お兄ちゃん、学校、一緒に行ってくれる?」
          緊張しているのか、少し臆したような面持ちだった。
          思えば、詩織が自分から充彦に話し掛けてきたのは、この時が初めてかもしれない。敬語も消えている。
          充彦は、ああ、きっとこの子なりに勇気を出してくれたのだと思い、
          「ああ、一緒に行こう」
          と笑顔で応えた。
          思い切って声を掛けてみたが、今、充彦は初めて分かった。詩織はこれまで何も言わなかったが、自分と同じように、家族としてどのように接していけばいいのかという事を、ずっと考えてくれていたのだ。
          別々の学校に通っているため駅で別れるのだが、その十数分が、兄妹の始まりだった。
          それ以来、顔を合わせるたび、少しずつ詩織と話すようになっていった。

          しかし、京介とは、何かを親しく話せるような状況にはならなかった。
          仕事が忙しいらしいが、京介が家にいないのだ。
          しかもこの頃になると、母も京介に伴われほぼ毎日外出するようになっていた。
          それは一学期が始まり少しした頃から徐々に頻度が上がり、気付けば京介は当たり前のように母を仕事に伴わせ、連れ回している。二人ともほとんどと言っていいほど家にいる事が無い。地方や海外に出掛けたりして、何日も帰って来ない時すらある。
          充彦は、これにも困惑した。京介は、母の事を秘書か部下とでも思っているのか、と腹立たしい感情すら湧いてくる。
          母が、もう昼も夜も無く働くような生活はしなくてもよくなるだろうと。少しは楽な生活を送る事ができるだろうと思い、充彦は結婚に反対しなかったのだ。
          専業主婦になったはずなのに、これほど外出ばかりでは、却って母の身体に負担が掛かってしまっているのは明らかだ。たまに帰宅した母の疲れた顔を見るとやるせなくなってくる。これでは結婚した意味が無いではないか。
          しかし、身体を気遣って充彦が声を掛けると、母はとても充実している、と笑顔を見せた。
          幸せそうな。息子の充彦から見ても可愛らしいと思えるような笑顔だった。
          充彦はそれ以上何も言えず、無理だけはしないでほしいと伝え、やはりこれから先もずっと母を支え続けると、心に誓う事しかできなかった。



          母も京介もいない事が多い日々の中で、充彦と詩織はよく話し信頼を深めていった。毎日の出来事を少しずつ話す事から始まり、互いにこれまでどんな生活をしていたのか等も話すようになった。
          詩織は、通学については、余程の時でない限り、やはり登下校時の車での送迎を拒んでいるようだ。また京介が科目ごとの家庭教師を付けようとしたが、塾に行きたいと、それだけは我侭を言ったそうだ。そして学校では、意外と言えば意外にもテニス部に所属していた。
          また驚く事に、詩織は炊事、洗濯といった家事をすべて一人でこなせていた。無論充彦もできる事ではあるが、十三歳の、しかもこれほど裕福な家で生まれ育った子がと思うと充彦は感心させられた。
          訊くと、京介の命で小学生の六年間、非常に厳しい躾の家庭教師が付いていたらしい。詩織は、そのお陰で礼儀作法の他、家事一般の多くを身に付けられて感謝はしているが、小学校を卒業した時、その家庭教師からも開放される事になり、それが一番嬉しかったそうだ。
          充彦は、それはそうだろう、と苦笑した。しかし、詩織がなぜこれほど物静かで口数が少なかったのか、ようやく理解できた。
          京介は、詩織が幼い頃から仕事でほとんど家にはおらず、詩織と接するときは小言ばかり。躾の家庭教師はやたら厳しく、しかもなぜか、通ってくる家政婦や使用人達とは親しく口をきいてはいけないと、厳しく言い付けられていたらしい。
          これでは詩織が大人しくなるのも当然だろうと思う。
          言われてみれば、使用人達は充彦に対しても素っ気無い態度を取ると思ってはいたが、それにはそんな事情があったのか。
          恐らく実母の死後、詩織には心から打ち解けられる『家族』がいなかったのかもしれない。
          思い返すと、充彦も母が家を空ける事が多かったが、孤独を感じさせられるような事は一度も無かったと思う。それに、ヒロさんが頻繁に傍に居てくれた事も大きかった。
          話すうちに、充彦は週に何度か詩織の勉強を見てやる事にした。
          詩織の成績は、充彦ほどのトップクラスでは無いが決して悪くは無いように思う。だが今、また両親が傍にいない日常において、早く詩織にとっての『家族』になれるようにと思っての事だった。
          何度か勉強を見ていると、詩織は充彦の成績のレベルに気付いたらしく、自分の勉強もあるでしょう、と遠慮しようとするが、もちろん時間がある時で、俺の気が向いた時な、と冗談ぽく言うと、詩織がくすっと笑った。少し拗ねたふりで、じゃあできるだけお願いね、と。
          素直な笑顔だった。やっと、そんな表情を見る事ができたと思う。
          気取らず気負わず、充彦も素直に接していた。
          まだ始まったばかりだが、少しずつ、兄妹らしくなっていけるかもしれない。
          自然に、充彦は詩織と接する時間を大切に思うようになっていった。



          家でも学校でも、少しずつ生活が変化する中、七月の半ばから夏休みに入った。
          充彦は、夏期講習や部活動に参加し、暑い夏を過ごしていた。
          また、京介には黙ったままアルバイトも始めた。部活の先輩に、喫茶店での仕事の手伝いを頼まれたのがきっかけだった。充彦は落ち着いたら何かやりたいと思っていたので、夏休みの間はと、時折引き受ける事にしていた。
          詩織は、塾と部活の練習によく出掛けているようだった。
          変わらず京介と母は外出がちだったが、ちょうど七月の終わりの事だった。
          母が、京介の仕事に同行する事を止め、数日家にいると言うのだ。事情は分からないが、これで少しは母が身体を休められると思うと、充彦は安堵した。詩織は、母とはまだあまり話せないようだが、自然と接する機会も増えてきたようだ。
          そして八月に入ってすぐのある日、昼食の後に母が広い台所で何か作業をし始めた。
          充彦もこの日は家にいたため見ていると、鼻歌交じりに、何やら料理をしている。それに気が付いて、詩織も台所を覗きに来た。
          母は、普段の食事の支度よりも手の込んだ料理を数種類、丁寧に作っている。しばらくするといい匂いが漂ってきた。ある程度その仕込みが終わると、今度は粉や砂糖を取り出しまた何か作り始めた。
          詩織と顔を見合わせながら、充彦が急にどうしたのかと母に尋ねると、
          「今日は、詩織ちゃんの誕生日でしょ」
          と楽しそうに答えた。
          「え」
          充彦より先に、詩織が声を上げた。驚いて、はにかむように下を向く。
          母は詩織のために、この沢山のご馳走とケーキを作っていたのだ。
          充彦も、今日が詩織の誕生日だったとは知らず驚いたが、そうと分かれば。
          「母さん、手伝うよ」
          笑って、充彦が手を洗い入っていくと、じゃあお願い、と母が笑った。
          すると、それを見ていた詩織が遠慮がちに、私も何か、と入ってきた。
          本当なら、祝う本人に手伝ってもらうのも悪いけどな、言いながらも、母は詩織の申し出を受け入れた。
          詩織は、嬉しそうに微笑んで作業に加わった。

          そして夕刻。
          出来上がったすべての料理とケーキを並べ、三人でテーブルを囲んだ。
          母が腕を振るった料理はどれも格別で、交わす会話も食事を美味しくしていた。
          楽しく語らいながら、充彦はこの広い居間が、自分と母が来てから初めて、明るい笑い声に包まれたように思う。
          食事の後にはケーキに蝋燭を立て火を点し、詩織の誕生日を祝った。
          母がケーキを切り分け、話しながらわくわくと三人でケーキをつつく。
          やがてそれもすべてたいらげ、笑顔の絶えない穏やかな時が流れていた。

          その後、そろそろ、と母が立ち後片付けを始めると、充彦と詩織も手伝った。しばらくして、もう後は大丈夫、と母が言うので、二人はそれぞれ自室に戻る事にした。しかし詩織は、居間を出る前に足を止めた。
          黙って、片付けをしている母の後姿を少し眺めた後、口を開いた。
          「ありがとう」
          母が振り向いた。詩織が続ける。
          「お母さん。嬉しかった」
          詩織は、少し緊張するような、気恥ずかしいような、そんな表情だった。
          その姿に、母が思わず涙を溢した。
          それを見ていた充彦も胸が熱くなる。母も、詩織との関係についてずっと悩んでいたはずだ。詩織が難しい年頃である事も充分理解し、いきなり母親ぶるのでは無く、真摯に詩織を思い、見詰め続けてきたのだ。
          その母の思いを詩織が受け止めてくれた事は、何より嬉しい事だった。
          詩織の十四歳の誕生日は、充彦にとっても、忘れられない思い出になった。
          外出が多い中、母はこの日詩織のために何ができるだろうと、ずっと考えていたのだと思う。だから今日、詩織の誕生日を祝うために、京介の仕事への同行を断っていたのだ。
          そう、ただひとつ。この場に京介がいない事だけが、充彦は不満だった。

          次の日には京介が戻り、その翌日から母はまた京介の仕事に伴われ外出して行った。京介も詩織の誕生日だった事は分かっていたはずだが、何も言わなかった。
          そして、母と京介はその日から一週間、帰って来なかった。



          しかし、あの日から詩織は、母に対しても敬語で話すのを止め、折には自分からも話し掛けるようになっていった。母が頻繁に京介と共に外出している事も、詩織は自分なりに理解しているようだった。
          詩織と、母と充彦とが、ようやく打ち解け始めたこの頃。
          ある夜、充彦は京介の書斎に呼ばれた。ちょうど、夏休みが終わる十日程前だった。

          今夜は珍しく家にいると思えば何の用だろうと、充彦はノックをして部屋に入った。京介は書斎の奥の大きな机の前に座り、何かの書類を見ているところだった。
          「お父さん、何でしょうか」
          京介には、未だに打ち解けては話せない。それも考えてはいるのだが。
          充彦が声を掛けると、京介が顔を上げた。このようにまともに顔を合わせて話すのは、充彦が初めてこの家に来た日以来のような気がする。
          「充彦。転校する気は無いか」
          突然の事に充彦は驚いた。今の高校は以前住んでいた家に比べれば遠くなったが、通う事には何も問題を感じていなかった。友人や仲間もでき、間も無く二学期が始まり高校生活はまだまだこれからと言う時に。なぜ京介は急にそんな事を言い出したのか。
          「どういう事ですか」
          京介は、充彦にもしその気があるなら、と前置きし話し始めた。
          充彦が今通っている公立の高校から、京介の母校である有名私立大学の付属高校に転入させたいと言う。そしてそのまま、その大学へと進学しろと言う事でもある。その真意は、充彦に、自分が藤波家の次期当主になる自覚はあるか、という問いだ。
          もし、京介の意向通りにすると言うなら、その意思を認め、実業家としての英才教育を今後施していくと言うのだ。恐らく母と同じように、学校に行く以外の時間は京介に付き、行動を共にしろという事でもあろう。
          「どうだ、転校するか?」
          そして、藤波の家に入る時、次期当主になるかもしれないという事を少しは考えただろう、と充彦に答えを迫った。
          それは、充彦も初めて母からこの結婚の話を聞いた時から、考えていなくは無かった。他の親戚がどれだけいるかは知らなかったが、実子は一人娘だけなのだから、連れ子であっても、男子の自分にそういう役目が回ってくる可能性が無くは無いとは思っていた。
          しかしそれはもっと大人になってからの事だと思っていたし、今返答を求められても、何とも言い様が無い、というのが正直な気持ちだった。
          「将来はどうしたいと思ってるんだ。夢でもあるのか」
          返答に困っている充彦に、京介がさらに訊いた。
          夢は、ある。それはまだ漠然とした希望だが、将来は報道関係の仕事に就ければと、充彦は考えていた。中学時代、ヒロさんが話してくれた世の中の多くの出来事に、自分は今はまだ子供だが、大人になったら、多くの事が知りたいと。そしてそれを多くの人に伝えていけたらと、充彦は思っていた。
          「俺は……」
          かろうじてそれだけが口から出た。
          今の充彦の立場では、いつか直面しなければならない問題だという事は分かっているが。
          しかし、今それを決断しろと言うのか。
          充彦はまだ高校一年生、十五歳の少年なのだ。生まれた時からこの環境にいた訳でも無い。
          京介は黙って充彦を見据えている。
          藤波の家に来て五ヶ月。その京介の目を見ながら。
          厳しい男だという事は分かっていたが、内心、充彦は唇を噛む。
          何の前触れも無くいきなり将来の決断を突き付けられ、本当に今それを答えなければならないのか。
          充彦が甘えている、と言われればそれまでだが、あまりにも重大な選択だ。
          長い沈黙の後、京介の目を見て、充彦が答えた。
          「少し、時間をください……」
          自然と視線が下がる。
          ここで取り繕っても仕方が無い。いい加減な事を言ってもこの男にはすぐに見抜かれてしまうだろう。
          充彦は正直に答えた。藤波家の次期当主になる事は全く考えていなかった訳では無い、しかしだからと言って今すぐには決断できない、と充彦は答えざるを得なかった。
          その充彦の様子を見た京介が、小さくため息をついて言った。
          「やっぱり、お前は泰子の子だな」
          「どういう意味ですか」
          充彦は即座に問い返した。自分の事は何を言われても構わない。だがそれは聞き捨てならない。京介は、ほう、と感嘆し、
          「初めて俺に、自分の言葉を出したな」
          余裕のその表情に、悔しさと憤りがこみ上げてくる。
          まあそう噛み付くな、と京介は軽くいなし、
          「母親と同じように慎重だと言ってるんだ」
          京介曰く、泰子に求婚してから、実はかなりの期間返事を待たされたらしい。間近に充彦の受験があり気掛かりだったからだろうと、京介は思っているらしかった。
          「まあいい。いずれ、また答えを聞く」
          そう言うと京介は、話は終わったとばかりにまた書類に目を通し始めた。
          充彦は黙って頭を下げると、部屋から出た。

          廊下を自室に向かって歩きながら、充彦は思わず拳で傍らの壁を強く叩きつけた。
          悔しい。これまでこんなに悔しい事があっただろうか。
          京介は、まだ若い充彦が何も答えられない事を分かっていて、わざと問い詰めてきたのだ。
          充彦の覚悟を試したのだ。
          しかも充彦にとって重大な選択を迫っておいて、返答は「まあいい」だけなのである。思わず呆気に取られたその態度は、最初から、今すぐには充彦に決断させなくてもいいと考えていたとしか思えない。
          今の高校は念願の志望校らしいが、俺が通わせてやってるんだとでも言いたいのか。
          将来の事は、確かにいつかは直面する問題だ。それについてまだ数年は猶予があると思っていた充彦の甘さも思い知らされた。
          「畜生……」
          充彦は唸りを押し殺した。



          充彦には、高校生になるこの歳まで、反抗期らしい兆候は一度も現れた事が無かった。幼い頃からずっと母を支えてきた充彦には、普通の思春期の少年には必ず現れるはずの感情が、一度も湧く事無くこれまで過ごしてきていた。
          同年代の子らと比べると、どこか大人びていた事も間違いない。
          この藤波の家に来て、物心が付いてから初めて接する『父親』である京介に対する反発が、初めてのそれだと言う者もいるかもしれない。
          しかし、思春期に見られる一時的な感情で片付けられる程、この反発は単純な感情では無い。なぜなら、京介に対するそれは、充彦が成人して大人になっても解消されなかったからだ。
          この後それは年月を経るたびに大きくなり、充彦の中で否応無く、決して消せないわだかまりへと膨らみ続けていく事になる。

          搾り出すように息を吐いて自室へと歩き始めた充彦を、廊下の影から、母が見ていた。
          苦しそうに眉根を寄せ、充彦の後姿を見送っていた。





          第三章 了


          ☆ 第四章 ☆




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          「 雨の幻影 」 第四章
          2013.08.30 22:25
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            一年が過ぎた。
            充彦は転校する事無く公立高校に在校し、二年生の夏休みを迎えていた。眩い陽射しの中、夏期講習や部活動に勤しみ、友と語らい、青春真っ只中である。
            昨年始めたアルバイトは、気分転換も兼ねて頼まれれば断らずに入る事にしていた。このアルバイトに関しては、少し前に京介に気付かれ渋い顔をされたが、充彦は咎められないようにうまくやり過ごしていた。無理矢理辞めさせられてはたまらない。
            京介と母は、外出している事が既に常になっていた。母もこの生活に随分慣れたらしく、充彦から見ても以前ほど母が疲労しているようには感じられなくなっていた。不在がちであっても、詩織と充彦の誕生日には必ず、そっと贈り物を残して行く。在宅時には家事もし、よく充彦と詩織に声を掛けてくれた。充実はしているようなので、それも母の生き方と思い見守る事にしていた。
            あの昨年夏の出来事以来、充彦は、京介と打ち解ける努力をする事を放棄していた。家族になったからと、意識し過ぎていたのかもしれない、とも今は思っている。
            詩織とは、随分肩の力を抜いて話せるようになり、充彦がこの家に来た頃に比べれば、詩織も普段から明るい表情を見せるようになったと思う。
            昨年の転校を廻る京介と充彦との確執も、詩織は気付いているようだった。
            考えずとも、詩織は生まれた時から京介と親子であるのだから、同じような経験は多々あったであろう事は想像できた。だからこそ、詩織は充彦の気持ちをよく理解してくれているようだ。十一月の充彦の誕生日には、いつの間に母から教わったのか、充彦の好物ばかりを作り食卓に並べた。母と同じ味になっているだろうかと、それを口に運ぶ充彦を心配そうに見ていたり。何かと気遣ってくれている詩織には、不安な思いをさせてはいけないと思っていた。
            時折勉強を見てやる事は継続している。詩織は中学三年生だが、一環校のため受験は無い。ただ、詩織はまだ明言はしていないが、大学については、一環校以外の進学先をも視野に入れているようだった。しかし恐らくそれは京介の意向では無く、京介をどう説得するかという事も悩んでいるらしい。
            充彦が、そもそもなぜ今通っている一環校に入学したのかを詩織に訊ねると、詩織の亡くなった実母の教育方針であったそうだ。
            気兼ねするのか、詩織はこれまで実母の事はあまり話題にしていなかったのだが、促すと遠慮がちに話し始めた。

            詩織の実の母親は百合枝という名で、詩織が八歳の時に病死したそうだ。元々あまり身体は強くなかったらしい。旧財閥系の血筋で深窓の令嬢であったが、戦後は慎ましくひっそりと暮らす家柄に育った女性だそうだ。そのせいか、幼い詩織にも無駄遣いや贅沢を禁じ、できるだけ外の世界に触れさせるようしていたらしい。今の学園は、百合枝が強く勧めた教育機関だそうだ。
            京介とは偶然の出会いだったが、京介が一方的に百合枝に一目惚れし、熱烈に結婚を迫ったそうだ。
            あの京介が、と俄かには信じ難かったが、元々下町の小さな不動産屋の家に生まれた京介は、百合枝と釣り合う人間になるために事業を広げ、財産を築き、都心に近い一等地にあるこの屋敷を買い取り、百合枝を迎えたそうだ。
            無論、詩織はそのような話を両親から直接聞いたのでは無く、噂好きの親類達が興味本位で話しているのを耳にして、との事だった。
            充彦がこの藤波の家に引っ越して間も無かった時、一度だけ、広い屋敷の奥の部屋にそっと飾られている百合枝の写真を見た事があった。確かに、写真で見ただけでも思わず感嘆の声が出るほど麗しい女性だった。充彦は自分の母の事も、実子の充彦から見ても凛とした美しい容姿だと思っていた。しかし百合枝のそれは、一目でこの世の者かと見紛うほどの美貌であった。人柄も良家の育ち故のたおやかさと芯の強さがあり、まだ幼い詩織にも、自分の道は自分で決めて歩むようにと諭していたと言う。詩織は今でも尊敬しているそうだ。
            話を聞けば、京介がそこまで惚れるのも分かるような気がする。
            京介は、本当はもっと百合枝を伴い日々を過ごしたかったようだが、百合枝の体調を慮り、断念していたらしい。だからこそ、再婚した今、京介が健康な母を存分に連れ回しているのかもしれない、と充彦は初めて理解した。

            充彦の実の父の事は、顔も名前も知らない、とだけ詩織に話した。実際、本当に知らないのだ。
            「そうなんだ」
            詩織は少し戸惑ったようにそれだけ言い、やはりあまり触れてはいけない事だったと思ったのか、下を向いてしまう。充彦は、黙ってしまった詩織に、物心ついた時から母と二人で暮らしていたが、周りの人達にも良くしてもらって辛かった事は一度も無かった、と笑顔を向けた。
            少し顔を上げて、詩織は頷いた。
            充彦は、所属している山岳サークルでの話をした。現在の部活や中学生の時からの経験も話すと、詩織には未知の事らしく、感心しながら聞いてくれた。充彦の中学時代の様子も聞きたがって、いろいろと質問してくる。話は弾み、また穏やかな空気が戻る。
            ただし。詩織から、山に興味を持ったきっかけを問われた時は、友人の父親で詳しい人がいて教えてもらった、と答えた。ヒロさんの事は、言わなかった。
            母が大切にしていたあの写真は、この家には飾られていない。
            詩織とはこれまで話せなかった事も、こうして話せるようになってきてはいるが。充彦は、実の父親の話ならともかく、ヒロさんの事は、この家で口にするべきではないと思っていた。



            夏休みが明けて二学期。十月に入り、数日経ったある日の事だった。
            朝、充彦が登校し、いつものように途中で出会った友人達と話しながら自分の下駄箱を開けると、それが入っていた。
            白地にピンク色の可愛らしい模様の封筒に『藤波君へ』と書いてあった。
            思わず頬が緩んだ。充彦の様子に気付いた友人達が覗き込み、ひゅーっと大声を上げる。散々冷やかされながら、一応その場で中を確かめると、放課後の呼び出しと、K・Tとイニシャルが書いてあった。やたら女子に詳しい友人の話によると、確証は無いがそれは同学年の田嶋の筆跡ではないか、と言う。
            それは田嶋香澄というバレー部の美人で、学年でも有名な、男子からの人気が高い女だった。行ってみろよ、とまた冷やかされ、充彦は珍しく一日を落ち着かない気持ちで過ごした。
            放課後、指定の場所に行くと、やはり手紙の送り主は香澄で、至極真っ当に告白された。
            正直、人気があるとは言え、充彦は香澄の存在を友人達の噂話でしか知らず、まともに顔を見るのも初めてだった。しかし以前からずっと好きだったと告げられると、決して悪い気はしない。充彦も年頃の男子であり女子にはもちろん興味深々である。
            断る理由も無く、充彦は香澄と付き合う事にした。
            中学時代にも、これほど明快ではないが、女子に好意を寄せられた事はあり、充彦にも気になる女子がいた事はある。しかしその頃は高校受験も近く、あまり深入りせずに卒業してしまい、それきりになっていた。
            香澄は積極的で、その日から登下校を共にする事になり、二人の交際が始まった。
            登下校と言っても学校から駅まで歩くだけなのだが、駅で香澄と別れた後もまだあまり実感が無く、呆気に取られる程突然やってきた機会に、充彦は嬉しいと言うより戸惑いの方が大きかった。
            数日もすると徐々に慣れてきて、そのうち学校が休みの日には時間を作ってデートをする。傍らに立ち、香澄の健康的な美しい顔立ちで微笑み掛けられると、男子の人気が高いのも頷ける可愛らしさだった。いつも明るく、話題も豊富で、話していると新鮮な感覚であった。
            とても楽しいはずだった。授業と部活、アルバイトにと動き回っていた充彦の高校生活に、不意に訪れた美人の恋人との甘酸っぱい時間。
            しかし。楽しいはずの交際であるにも関わらず、どこか充彦の胸の中は不穏だった。

            家では詩織と毎日を合わせるのだが、充彦は、詩織には何も言わなかった。言ってもいいのだが、なんとなく、今わざわざ言わなくてもいいような、そもそも特に言う必要も無いような、でも初めてできた彼女なのだし黙っているのもどうだろうか、と妙に考えてしまい、未だに言い出せずにいた。
            しかし、詩織は充彦の微妙な変化に気付いたようだった。日曜日も忙しいんでしょう、などと言って微笑み、充彦に勉強を見てもらうのを遠慮しようとしたりする。
            充彦は特に自分が変わったと思っていないのだが、詩織は敏感に感じ取っているのか。まだ中学生とは言え、やはり女性とはそういうものなのだろうか、と充彦は思う。
            詩織はそれ以上何も言わないが、充彦は変わらず詩織と接しているつもりでいた。
            ただそれよりも、充彦には気になり始めている事があった。そんな詩織自身も、少しずつ変化があるように感じるのだ。
            そう感じるだけで、それが何なのか、本当にそうなのか。充彦にはまだよく分からなかった。

            香澄と交際を始めて一ヶ月が経ったある日、下校時に公園に立ち寄った。通学路にある公園で、時々そこで話し込む事があった。夕刻になり、気付くと、公園にいるのは充彦と香澄だけになっていた。
            奥のベンチに座っているのだが、その日に限って香澄がやけに接近してきて対応に困っていると、ふと会話が途切れた。そして、香澄が瞳を閉じて充彦に顔を向けてきた。
            何を求められているのか、すぐに分かった。
            さすがに胸が高鳴る。ここで拒む理由も無い。充彦はその誘いに乗った。

            柔らかい唇の感触。ふわりと爽やかなコロンの香りと、微かに汗の匂い。
            初めて知る温もりに、一瞬時が止まったような。
            しかし。
            その時、吐き気がした。
            背中にぞわっと嫌な悪寒が走り、その感触も香りも不快でしかなかった。
            だが充彦はできるだけ突き放さないようにそっと唇を離した。
            香澄は満足そうに充彦に身を委ねようとしたが、充彦は黙って立ち上がる。
            そして振り向きもせずに歩き始めた。驚いた香澄が何か叫んでいたが無視した。

            その瞬間、頭に浮かんだ顔があった。それが今もありありと頭から離れない。
            充彦はそのまま、真っ直ぐ家に帰った。今日はこの後特に予定も無い。
            家には、誰もいなかった。詩織はまだ帰宅前のようで、それは大きく幸いした。
            なぜだ。なぜこんなに不快なのだ。充彦は混乱していた。学年一の人気の誰もが羨む美人の恋人とファーストキスをして、何がこんなに不愉快なのか。
            だが充彦はできるだけ考えないようにした。考えてはいけない気がしてたまらないのだ。充彦は机に向かい、ノートや参考書を開いて勉強し始めた。
            しばらくすると、物音がして詩織が帰宅したようだった。
            「お兄ちゃん、帰ってるの? どうしたの、具合でも悪いの?」
            自室に閉じこもりきりの充彦に声を掛けてくる。
            「いや何でも無いよ。今日はどこかに寄ってきたのか?」
            「うん、友達と渋谷をうろうろしてきちゃった」
            他愛も無い会話をした後、充彦は一人でまた机に向かい続けた。
            何も考えたくなかった。
            翌日、充彦は適当な理由を付け香澄と別れた。



            香澄は振られた事でいたくプライドを傷付けられたようで、別れを告げた充彦に散々悪態を付き去っていった。あれほど明るく可愛らしかったのに、こんな女だったとは思いも寄らない充彦は軽く面食らう。
            何しろ人気の女子を振ったのだ。他の男子の目線も痛かった。しかし充彦には勉強や部活に熱中する他は無い。親しい友人達が充彦の味方をしてくれた事もあり、徐々にそれも元に戻っていった。
            何より、一週間もすると、香澄がバスケ部のキャプテンと付き合い始めたため、充彦に対する風当たりは一気に納まった。香澄には悪いが、充彦は内心ほっとしていた。

            ちょうどその頃。
            詩織もどこか変化してきているように思っていたが、充彦は既に理解し始めていた。詩織の話に、ある名前が頻繁に出てくるようになったのだ。
            「しばっち」と詩織が親しげに呼ぶその相手は、芝山という詩織と同学年の男で、塾で知り合ったらしい。もちろん詩織とは違う公立の中学校に通っていて、どうやらボーイフレンドのようだ。恋人、というほど深い仲でも無いらしいが、夕食の時などに詩織が嬉しそうに話してくる。
            詩織が気に入った相手ならおかしな男でもあるまいとは思うが、充彦には芝山がどんな男か直接は分からない。今後詩織の心が傷付けられるような事が無ければよいが、と思いながら、言葉には出さず干渉し過ぎないようにしていた。
            もしかしたら、充彦に勉強を見てもらうのを遠慮し始めたのは、芝山との事もあるのかもしれない。
            しかし、詩織は高校受験が無いと言え、今は進級がかかっている大事な時期でもある。心配し過ぎなのかもしれないが、充彦の胸中はあまり穏やかではなかった。

            ひと月ほど経った頃。時折、詩織が以前のように無口になる事があった。塞ぎ込むように表情が優れない。進路の事で悩んでいるのかと相談に乗ろうとしても、大丈夫、と少しだけ微笑を見せて自室に戻ってしまう。気掛かりは気掛かりだが、心配だからと言って無理に問い詰めても意味の無い事だと思い、充彦はこれまで通り見守り続けていた。
            やはり進路や、芝山の事で悩んでいるらしい。あまり詳しくは話さないが、詩織が自分なりに乗り越えようとしている事はよく理解できた。充彦は気遣いつつも、勉強だけはよく見てやるようにしていた。変わらない充彦のその態度に、詩織は少しずつ平静を取り戻してくれたようだった。
            十二月になり、詩織は無事高等部への進級を決めた。ようやく人心地が付いたらしく、詩織はまた明るい表情を見せるようになる。その様子に、ひとまずは充彦も心を落ち着かせる事ができた。



            二ヶ月が経ち、翌年の二月の事。
            充彦はまた女子からのアプローチを受けた。
            バレンタインデーに、一年生の小浜由紀子から告白されたのだ。充彦が部活で、他の部員達と体力作りの為のランニングをしていた姿を見て好きになったと言う。しかし充彦にとっては全く知らない女子で、断りたかったのだが、返事は一ヶ月後のホワイトデーに聞かせてくれと食い下がられ、断りきれなくなってしまった。一途に訴え掛けてくるので根負けしたようなものだった。
            それに、少し離れたところから、由紀子の友人と思しき一年の女子が三人ほどずっとこちらを伺っていて、あまり無下に断るのも憚られた。
            由紀子は一見して大人しそうな容姿で、笑うと笑窪が印象的な女だった。顔立ちが似ている訳では無いが、どことなく出会ったばかりの頃の詩織を彷彿とさせる雰囲気があった。
            充彦は仕方無く、一ヶ月の間は由紀子となんとなく話したりしてみたが、どうも惹かれる気がしない。淑やかそうな顔をしているが、告白から一ヶ月間は、充彦と恋人候補として接する事ができるのだから、ちゃっかりしているとも言える。ある時、意を決したのか由紀子が距離を詰めて接近してきたが、やはりむかむかと不快感がこみ上げてきて、付き合うのは無理だと確信した。
            約束だからと一ヶ月後、充彦は丁重に交際をお断りして由紀子に諦めてもらった。随分泣かれて困ったが、どうにか納得させる事ができた。申し訳無いとは思うがどっと疲れた。

            数日後、ようやく春休みに入る。来たるべき大学受験に向け予備校に通う事も考えていたが、この高校には熱心に教えてくれる教師が多く、共に励む生徒達の意識も高い。充彦は、真面目に高校で講習や模試を受けていれば、予備校に通わずとも受験には耐え得ると判断した。春期講習を受けながら、改めて気を引き締め直していた。
            詩織は四月から高校生である。高等部への進級が楽しみらしく、気持ちも新たに高校生活をスタートさせようとしていた。
            芝山とは、その後自然消滅したらしい。一月に芝山の受験も終わり、塾も一旦は修了という形になったため、それきり疎遠になったようだ。詩織ももう吹っ切れている様子が見て取れた。
            その朗らかな笑顔を見ながら、充彦は胸のつかえが取れた思いだった。心のどこかでほっと安堵する。それは由紀子の件の形がついた時よりも。
            なぜだ。なぜ。今安堵しているのか。



            高校三年の一学期が始まった。
            アルバイトを控える事はもちろんだが、部活も三年生は早々に引退となる。ましてや充彦が所属しているのは非公認のサークルである。
            活動は五月、ゴールデンウイークを利用して行うトレッキングまでと決まっていた。最後の活動に向け、部室のように使っている教室でサークルの仲間と計画を練っていると、二、三人が何か目配せし合っている。
            会合が終わり、彼らに話を訊くと、同じ三年の女子部員の土井梢恵が、充彦に想いを寄せていると言うのだ。
            充彦にとっては衝撃だった。このサークルでは男女の関係無く皆仲が良く、誰に対しても恋愛感情など持った事が無かったからだ。そんな雰囲気を感じた事すら全く無かった。
            充彦だけは気付いていなかったが、他の部員達には周知の事だったらしい。そして三年最後の思い出作りとばかりに、次の日の会合の後、強引に、部室に二人きりにされてしまった。
            これまで友達付き合いをしていた時とは全く違う梢恵の表情に、充彦はうろたえた。じっと見詰めてくるその瞳を、充彦は見る事ができない。
            どうしてもその気にはなれなかった。どうしても。
            充彦は、これからは受験勉強に打ち込みたいから、とだけ言い残し、逃げた。
            女友達だと思って気も許していたのに、裏切られたような気分だった。



            そして。
            家に帰り、充彦はベッドに倒れこむ。
            帰宅した時、詩織は既に帰っており、迎えてくれたその顔を見た。
            気付いた。気付いてしまった。女に接近されるたびに頭に浮かぶ面影。
            毎日、共に朝食と夕食を取り、親が家にいない間も助け合い、話し合い、笑い合い。
            悩んでいる時も、疲れている時も、心安らぐ時も。
            誰よりも近く。毎日、同じ屋根の下で。今も頭から離れない、その面影。
            充彦は自覚した。自分が、誰に恋焦がれているのかを。





            一度気付いてしまうと、もう元には戻れない。
            いや、本当はずっと前から気付いていたはずなのに、無意識に、そして必死に気付かないでいようとしていた自分が痛い。
            血の繋がりが無いとは言え、紛れも無く相手は『妹』なのだ。
            誰にも打ち明けられない禁断の想いを抱え、充彦の苦悩の日々が始まる。
            充彦は、これまで普通に接していたクラスの女子達とも、あまり話すような気にもなれなくなった。梢恵の一件もあり、できるだけ女子と親しく接するような事を避けた。
            そして学校にいる間はまだいいのだが、いつまでも帰宅しない訳にもいかない。
            幸いと言っていいのか大学受験が目前に迫っていて、色恋に感けている場合で無い事に違いは無く、充彦はとにかく勉強に打ち込む事にした。

            ある夜。受験勉強の合間、充彦が飲み物を取りに台所に行くと、居間のテレビが点きっぱなしになっているのが見えた。入っていくと、テレビの前のソファで詩織がうたた寝をしていた。
            高校生になってからもテニス部に所属しているが、日々の練習で疲れているのだろうか。
            すうすうと寝息を立てて眠る詩織。まだあどけなさも残るその寝顔。両親は、今夜も帰らない。
            充彦は、タオルケットを取りに行き、詩織にそっと掛けてやった。
            すると詩織がふと目を覚ます。
            「あ……。ごめん、寝ちゃってた……」
            寝起きで少しぼんやりしている。
            「風邪ひくぞ」
            充彦がそう言うと、詩織は、そうだね、とタオルケットを持ったまま自室へ戻って行った。
            「おやすみなさい」

            廊下の向こうで、ぱたん、と扉が閉まる音が聞こえた。
            充彦は、まだ点いたままのテレビを、ぼんやりと見ていた。



            その後も、家での生活に変化は無かった。あってはならない。
            充彦は本格的に受験勉強に打ち込み、翌年一月。センター試験も余裕で突破し、二月には希望の大学へと進学を決めた。
            やはり京介の薦める大学ではなかったが、一流の私大であったため京介は渋々許してくれた。母は、無論反対などしなかった。

            受験も終わり、ようやく張り詰めていた気を緩める事ができた充彦だったが、時間がある時はまたアルバイトに入る事にした。打ち込んでいた勉強もひとまず区切りが付いてしまい、とにかく家にいる時間を減らしたかったのかもしれない。
            アルバイト先の喫茶店の従業員達とは気心が知れていて、仕事の後に話し込むような事もあり、気付けばしばしば夜遅く帰宅する事が多くなってきていた。
            この店には常連客も多く、充彦は年上の社会人や大学生の女性客にも気に入られ、時折仕事の後に買い物や食事に付き合わされる事があった。
            どう思っているのか分からないが、二人で歩いている時に腕を絡めてきたり、まるで挨拶か遊びのように軽く口づけてきたりする客もいた。それ以上は特に何か求められる訳では無いので、恐らくただの戯れ事のつもりなのだろう。充彦は最初の頃こそ戸惑ったが、段々どうでもよくなってきていた。この店で働くのも、あと僅かだ。香澄の時に感じたような嫌悪感には、もう慣れてしまっていた。



            四月。充彦は晴れて大学生となる。
            桜咲き乱れる春の陽気に包まれたキャンパスが、充彦の前に新しい世界を広げた。何もかもが新鮮だったが、充彦はとりあえず講義には真面目に出席し、徐々に慣れ始めると、山岳サークルとマスコミ系のサークルに所属する事にした。早速仲間を作り行動的に動き始める。幸いな事に、先輩達にもよく可愛がられるようになり、一、二ヶ月もすると、大学での活動的な日々にもすっかり馴染んできていた。

            やがて初夏に差し掛かる頃。コンパにもよく誘われるようになったのだが、ある時の事だった。たまたま参加した会で知り合った女がいた。
            松宮真奈という三回生で、小柄でベビーフェイスの割りには妙に肉感的な雰囲気の女だった。その時が初対面のはずだが、会の間中なぜか充彦の傍からずっと離れない。やけに積極的で、これから自分の部屋で飲み直さないか、と耳元で囁いてきたりする。充彦はまだ飲み慣れない酒に酔った勢いも手伝って、誘われるままに真奈の部屋まで付いて行った。どうしようかと迷ったのだが、結局押し切られたようなものだ。
            しかしそれが何を意味しているのか無論充彦にも分かっていた。充彦にもそれなりに女性に興味があり、それなりに欲望もある。酔っていなければ、部屋まで付いては行かなかったかもしれない。
            小奇麗なワンルームの部屋だった。全体がオフホワイトで統一されていて、落ち着いた雰囲気がある。
            真奈はやたらと手馴れていて、部屋に入って少し酒を飲むと、意味深に微笑んで明かりをそっと落とした。充彦の隣に座りしな垂れ掛かってくる。
            薄暗い部屋の中で。こうなる事は分かっていたが、真奈が積極的にリードしてくるのを見て、充彦が初めてだと気付かれていた事に軽く舌を巻く。しかしここで引き下がる訳にもいかず、充彦はそのままただ劣情に身を任せた。
            頭の中に鮮明に浮かび上がる面影がある。
            明かりの暗さだけが救いだった。腕の中の顔もよく見えない。
            俺は酔っているんだと自分に思い込ませ、行為に没頭する事だけを考えた。
            その夜、充彦は初めて女を抱いた。

            朝になり、充彦は真奈のベッドで目を覚ました。
            初めて女の肌を知り、こんなものかと達観するでも無く。充彦は重い身体を起こした。昨夜の酒がまだ残っているのか、頭が少しぼんやりする。
            明るい陽の光が、小窓から部屋に差し込んでいた。
            隣で目を覚ました真奈がもう一度と迫ったが、充彦は拒んだ。
            この明るさでは、無理だ。

            結局、真奈とはそれ一度きりだった。
            後で聞いた話によると、真奈は学内でも有名な女で、毎年新入生で目ぼしい男を見繕い、必ず声を掛けているらしい。
            道理で手慣れているはずだ。
            なら気にする事も無いと、充彦は再び真奈と関わろうとも思わなかった。
            遊ばれたと腹が立つ訳でも無く、後悔している訳でも無い。
            真奈と肌を合わせても、何も変わりはしなかった。
            多少迷ったが付いて行ったのは、そうなれば何かが変わるかもしれないと思ったからだ。しかし結果は、恐らくどんな女と関係しても、変わり得ない自分自身の想いを改めて自覚させられただけだった。
            誰も知らない、どうする事もできない自分自身の恋情に、充彦は苛まれた。

            大学生活は順調だった。変わらず優秀な成績を保ち、精力的に活動する充彦は多忙を極めていたが、その分充実している。
            ただ女性関係だけは一向に改善されない。何かのきっかけで知り合った相手に、この女と付き合えば気持ちを変える事ができるかもしれない、と自分に言い聞かせて付き合ってみたり。付き合った相手とはとにかく親密な時間を過ごして何かを忘れようとしてみたり。しかし、どれも無駄な努力であった。
            結局、どうしてもと迫られた時だけしばらく付き合い、毎度まともに愛する事もできず、できるだけ傷付けないように別れる。その繰り返しだった。
            どんな女と付き合っても。誰も充彦の心の中の面影を消す事はできなかった。
            そう、それは美咲でさえも。





            泥沼のような過去のまどろみから静かに覚醒し始める。
            遠い情景がぐるぐると渦を巻き、やがて波打つように感覚が引き戻されていく。
            充彦は目を覚ました。
            意識を自覚した瞬間、思わず呻いた。
            頭がずきずきと痛い。ベッドの中で身を捩る。
            どうにか目を開くと視界がぼんやりと霞んでいる。何かが、違う気がした。
            はっと気が付き、布団を撥ね除けるように身体を起こすと、周りを見回した。
            そこは、自分の部屋ではなかった。





            第四章 了


            ☆ 第五章 ☆




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