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「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #1
2015.09.21 20:55
0
    7月 新月の頃


    噎せ返るような血の臭いが充満している。
    仄暗い月を、厚い雲が覆い隠す真夜中。
    轟音を立て頭上を通り過ぎる列車も既に無い。
    薄く、冷やかに揺れる明かりに、舞い上がった埃が静かに落ちて行く。
    周到に目張りされた窓は、中の気配を一筋も外に漏らさない。
    密閉された空間に影が三つ。
    二つは、立ち尽くし、激しく肩が動いている。
    もう一つは、床に転がったままぴくりとも動かない。
    汗が噴き出す肌に、不快な蒸し暑さが纏わり付く。
    血に塗れたそれを握り締めたまま。
    静寂の中で、二つの激しい息遣いだけが響いていた。





     file #2



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    「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #2
    2015.09.23 19:00
    0
      7月27日(月) 朝刊 新聞記事


      東京・S区の倉庫で身元不明の遺体発見

       26日午後7時ごろ、東京都S区東の倉庫で、身元不明の男性の遺体が発見された。警視庁によると、数日前から異臭がするという近隣住民の通報が相次ぎ、署員が付近の建物を調べていたところ、昨夜になり倉庫内に倒れていた男性を発見。現場に多量の血痕が残されていたことから、男性が何らかの事件に巻き込まれた可能性が高いとして、捜査1課が捜査を始めた。
       遺体は年齢20〜50歳、身長165〜175cmの男性で、グレーのスーツを着用し、身元を示すものは持っていなかった。死因は不明。死後1週間から10日ほど経過しているとみられる。同課が身元の確認を急いでいる。遺体は損傷が激しく、一部が白骨化していたという。現場は、今は使われていない無人の倉庫。





       file #3



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      「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #3
      2015.09.25 23:00
      0
        7月26日(日) 夜 東京都S区


        これは酷い――。というのが率直な感想だ。
        これまで幾多の事件の現場検証に立ち会い、数々の遺体を見てきたが、ここまで酷い現場は滅多に無い。
        ここのところやたら事件が続き、今日も日の暮れた後まで事務処理に追われていたが、数十分前、遺体発見の一報が届いた。
        その内容から大方の予想は付いていたが。
        急行して現場に入ると、状況はそのとても嫌な予想を遥かに凌駕していた。
        目眩がするほどの腐臭、原形を留めない遺体、この耐え難い蒸し暑さ。
        立っているだけでだらだらと流れる汗が全身にべったりと絡み付いてくる。
        「大体、死後一週間から十日程ですかねえ」
        猛烈な吐き気と戦いながら一通り鑑識の話を聞き、手早く現場の確認を済ませた。

        外に出ると、青い顔をして壁にもたれ掛かってうなだれている奴がいる。
        「大丈夫か」
        声を掛けると、亀川はぐったりと顔を上げ、
        「僕、腐乱死体は初めてなんで」
        臭いと、あのビジュアルが、と言い掛けてまた込み上げてきたのか掌で口を覆った。えらく堪えているようだ。
        確かに今回の現場は群を抜いて酷いと言っていい。同情はする。しかし、だからと言って仕事はきっちりやって貰わなくては困る。俺だって我慢してるんだ。
        俺の若い頃はもっと扱かれたもんだ、と言ってやろうかと思ったが、面倒臭くなって止めた。

        現場の状況から、どう見ても殺人、死体遺棄だ。
        それもかなりの怨恨によるものだろう。
        遺体は特に上半身の損傷が激しく、腰から上、頭部までほとんどの骨が砕けている。
        所持品は無し。財布、携帯電話、鞄、鍵も無い。しかしただの物取りの犯行だとすると、この遺体の損傷状態が説明できない。ご丁寧に、スーツの上着に縫い付けられているはずのネーム部分を焼き消してある。
        窓には建物内部からすべて目張りが施され、外からは中の様子が一切伺い知れないようになっていた。
        死後一週間から十日と言っていたが。先週から馬鹿ほど気温が上がって、かつこれだけ密閉された異様な保存状態では、正確な死亡日時を判定するのは至難の業だ。しかも遺体のあの状態では顔はおろか指紋の判別もできないだろう。
        多量の血痕が残されている事から、恐らく、殺されてからここに運ばれて来たのではなく、ここで殺されて放置されたと考えられる。

        「近所の人の話だと、ここは廃倉庫みたいですよ。もう何年も前から使われてなかったそうです」
        どうにか立ち直ったのか、亀川が考え込んでいる俺に言った。
        持ち主は、と訊くと、現在連絡しているところだがまだ繋がらないと言う。
        とにかくここの持ち主に話を聞きたい。ここが普段どんな状態になっていて、どんな管理をしていたのか。
        遠巻きに集まって様子を見守っていた近隣住民に聞き込んでみると、この倉庫の持ち主は滅多にここに現れることが無かったらしい。
        「この辺、ちょうどこの一角だけ、防犯カメラがほとんど無いんですよ」
        亀川にそう言われ改めて振り返ると、確かに、繁華街から近い割には、この辺りには商店も無く、コンビニ一軒見当たらない。古いビルとシャッターが閉まったままの倉庫が立ち並び、昼間ならともかく、夜ともなると、ひっそりとしていて普段からあまり人通りが多いとも思えない。
        都会のど真ん中に存在する小さな死角――。そんな言葉が頭を過ぎる。
        また轟音が通り過ぎた。現場は鉄道の高架下にあり、常に無人であったと思われる。しかし倉庫にしては、後付けと思しき仕切りの壁や棚などが設置してあって妙な造りではある。昔は倉庫兼事務所、という体で貸していたのだろうか。
        入口にはドアが一つ。そのドアに付いている二つの鍵は掛っていなかったと報告されている。ただこの鍵が相当な古めかしさで、かなり劣化もしているらしく、少し針金でも突っ込んでいじるだけで簡単に解錠できてしまうような代物だった。これで本当に今まで誰にも侵入されずに済んでいたのか、と疑わしい程だ。
        一応その補強のつもりか、ダイヤル式の南京錠も設置してあったようだが、それを錠前ごと何かで叩き壊した跡があった。
        しかし。果たしていつ壊されたのか。誰が壊したのか。
        なぜ、被害者はこの中で死んでいたのか。
        亀川がため息を吐く。
        「また厄介な事件になりそうですね」
        なりそう、どころの騒ぎではない。確実に厄介だ。
        遺体の傍に血痕が付着した角材が二本転がっていた。指紋や下足痕を消した跡もあった。鑑識が遺留品の捜索をしているが、毛髪や衣類の一部を発見できたとしても、誰がいつ侵入したかも定かでないこの不用意な環境では、犯人の特定に結び付けるには相当骨が折れそうだ。
        「行方不明者との照合を頼んでくれ」
        亀川にそう言うと、分かりました、と答えふらふらと車に戻って行く。

        防犯カメラがほとんど無い、か。
        それでも、被害者は、間違い無くここに来たんだ。
        こいつは、誰だ。
        なんでここに来たんだ。
        誰に殺されたんだ。
        犯人は、どこから来てどこに逃げたんだ。
        角材が二本あったという事は、犯人は二人なのか。いやそうとも限らない。
        現場検証はまだ続いている。明日も明後日も続くだろう。
        あんな無残な殺され方をして。
        地獄のサウナのような空間に何日も放置され。
        どれほどの恨みを買っていたというのか。
        無意識に歩き出していた。
        気付いた亀川が声を掛けて来た。
        「有栖さん、どちらへ」
        「ちょっとこの辺歩いてみる」
        外に出てもこの不快な汗は一向に止まらない。
        高架の線路に沿って、綿密に周囲を確認して歩きながら。
        一報を受けたのはちょうど晩飯の直前だったが。
        今夜は何も喉を通りそうにない。





         file #4



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        「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #4
        2015.09.28 23:00
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          7月27日(月) 朝 待機宿舎


          やっと見つかったのか。
          取り敢えずは新聞を閉じる。思ったより小さい記事だったな。東京で身元不明の変死体発見なんて、そう珍しくもないって事か? 嫌な世の中だ。
          あの辺りは使われてない倉庫や事務所が多くて、すぐには発見されないだろうって言ってたけど、本当だったんだな。あそこが、一番足が付き難いって。
          最初は、誰だっけな、あの人が昔世話になったとかいうあそこのオーナーの事を気にしてたみたいだけど。そりゃあ他人の敷地に、勝手に人間の死体を放置すれば、有り得ないくらい迷惑だし。でも、その事はすぐに言わなくなったな。
          「何しろ、顔が広い人だから」
          何が起こっても、さらっとうまく切り抜けてくれるはずだって。一体そのオーナーってどんな奴なんだよ。
          まあ、そう言うあの人も、相当なものだと思うけど。お陰で今回、色々勉強させて貰ったよ。
          毎日、複数の新聞とネットニュースを隅々まで見て回るのも飽きてきたところだ。テレビのニュースやワイドショーでも、大々的に取り上げられてる訳では無さそうだし。でも、続報があるかどうか分からないけど、一応まだしばらくはチェックした方がいいな。

          「今度、瑛次に会って貰いたい人がいるの」
          姉さんからそう言われた時は本気で吐き気がした。
          あれは三か月程前だったか。去年くらいから、姉さんが時々あの男と会ってるのは知ってた。でも、たまにひと月くらい全く会わなくなる時もあって、本当に付き合ってるのかどうか、ずっと確信が持てなかったんだ。
          でも姉さんから直接言われれば疑いようが無い。やっと本腰を入れて張り付きだしたけど、ちょうどその頃から急に仕事が忙しくなってきて。非番の日もしょっちゅう呼び出されて、中々思うように時間が取れなくて。それでも、どうにか地道に動いてはいたんだ。

          そして先月。偶然、あの人と出会った。
          俺はずっと一人だったけど。あの人も、多分そうだと思う。
          こんな事は初めてだったよ。

          昨日は非番で、やっと姉さんと会う事ができた。
          うまく姉さんの休みと合わせられないと、ゆっくり話す機会を作れないというのも、いい加減もどかしい。
          姉さんが、あの男と連絡が取れなくなったって、不安がってたな。またあのストーカーに何かされたんじゃないかって。
          それであの男がいなくなった事を警察に届けようとしてたみたいだけど、親族でないと捜索願は出せないって言ったら、驚いてた。付き合ってるだけじゃ無理だって事、きっと知らなかったんだろうな。
          一応、あの男の家族の連絡先を知ってるのか訊いてみたけど、それも知らないって言ってたし。
          それはそうだろうと思うよ。あの男がそんな事を姉さんに教えるはずが無い。
          それどころか、あの男は姉さんを自分の家に連れてった事も無かったらしい。なんだかんだと理由を付けて、詳しい住所すら教えずに、いつまでも有耶無耶にしてやり過ごしてたんだろうけど。そういう事をしてるから最終的に身元不明の変死体で発見される羽目になるんだよ。自業自得だろ。
          姉さんは、近々向こうの家族と引き合わせて貰う約束だったって言ってたけど、それも。端からあの男に姉さんを自分の家族に会わせる気なんかあるものか。もっと早くちゃんとお願いしておけばよかったって悔んでたけど、それは姉さんのせいじゃないよ。俺とだって、あの男は会うつもりなんて欠片も無かったと思うよ。
          もうそろそろ気付いてくれよ。
          あの男が姉さんに嘘ばかり吐いてた事に。

          今日は週休、姉さんの仕事が終わるのを待って、もう一度会いに行く。
          これから俺と一緒に暮らそうって、話そうと思う。
          あんな男に騙されて、姉さんが傷付いて苦しんでる今だからこそ。きっと分かってくれると思う。
          早く姉さんを立ち直らせてあげたい。厭わしい過去は早く忘れた方がいいんだ。
          どいつもこいつも最低な奴ばかり。もうこれ以上、姉さんが傷付けられるのを黙って見てるなんて耐えられない。
          これからは、俺が一番近くで、姉さんを守る。
          二人で暮らす事が決まれば、この宿舎からも出る事になる。実の姉と同居するんだから、引っ越し先がここからそう遠い場所でさえなければ不許可になる事も無いだろうし。申請書類を提出しなきゃ。次の養成校の選抜試験のための勉強もしなければならない。国試取得を目指して、やる事は山程ある。
          早く充分な収入を得られるようになりたい。そうなれば、姉さんだってきっと喜んでくれるはずだ。
          そのためには、どんなに実務や訓練がきつくても、まずしっかり勉強して資格を取る事。そして、そこからもまだ先は長い。

          軽く息を吐き、読んでいた新聞を片付ける。
          証拠は全部完璧に処分したし、多分これも最終的にはお宮入りになってくれるだろう。これまでも、一度もばれた事なんて無かったんだし。何より、今回はあの男の方が姉さんとの繋がりをずっと隠し続けてたんだから。もし身元が判明したとしても、警察が俺に辿り着く可能性は低い。
          「ま、動くなら早く動いた方がいい。ただし慎重にな」
          あの人がそんな事言ってたな。俺もそう思う。今回は明らかに事件になってるから、まだまだ油断はしない方がいい。
          でも、あんな格好をして偽の身分証まで作って、俺があそこの管理人に成り済ますなんて、あの人もよく考えたものだと思う。無関係の人間を装った方が、あの男の口を割らせ易くなるからって事だったけど。
          ふと、あの人がどうしてるか気になった。
          あの人の事だから、もうこの記事には目を通してるだろう。
          俺はあの男の名前と勤務先を教えただけだったのに。俺が必死で付きとめた事より、あの人が調べ上げて来た情報の方が多くて、正確だったな。
          執念だと思う。それだけ、あの人にはあの人の強い想いがあったんだ。

          あの時、俺があの男の正体を話した時、姉さんが信じてくれてたら。
          もし、姉さんがあの男と別れてくれてたら、こんな事にはなってなかったんだろうか。
          いや、それでも俺は、やはりあの男に制裁を加えていただろう。
          もう分からない。今となっては、もう。
          それに仮に俺が手を引いたとしても、あの人が。
          醒めた瞳を逸らして鼻で薄笑う、その顔が頭に浮かぶ。
          もう二度と会う事も無い。
          ああ、そう言えば。
          俺は結局、あの人の名前も聞いてなかったな。





           file #5



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          「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #5
          2015.10.05 19:00
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            7月27日(月) 午前 東京都T区


            古い雑居ビルの階段を登る。
            繁華街の片隅でひっそりと立つそれは、五階建てにも関わらずエレベーターは無い。
            徐々に重くなる足。幾筋も頬を伝う汗を拭う。
            目指す四階に辿り着くと、狭いフロアに扉が一つ。これも古い鉄製で、上方に小さい網入りガラスの窓がある。インターホンなどは探すまでもなく最初からありはしない。扉を叩く。
            どん、どん。
            少しして、扉の向こうで気配が動いた。
            「俺だ。開けろよ」
            がちゃり、と音がして、扉が少しだけ開いた。
            チェーンがかかったままの細い隙間に、見知った顔が現れる。
            「ああ、因幡さん」
            そいつは俺を見てそう言った。
            見慣れたはずの、醒めた瞳。
            その奥に宿る深い闇が、俺を見て、少し笑った。



            ――いつからこいつはこんな瞳をするようになったんだ。
            そう思う間も無く、奴がその無骨な扉を開けて俺を迎えた。中に入ると、外と変わらない熱気と湿気がむわんと襲ってくる。いや、むしろ外より暑い。
            「おい、エアコンあんだろ。点けろよ。蒸し風呂じゃんか」
            部屋の中に入れば少しは涼しいだろうと思っていたのに。面食らって思わず言葉を投げた。すると奴は、
            「壊れてるんですよ。去年の冬から」
            と事も無げに答えた。見ると、俺に負けず劣らず汗だくになっている。
            じゃあ直せよ、と無調法な蒸し暑さに軽く苛つきながら言うと、
            「放っとけば直るかと思ったんですがね。そうでもなかったですね」
            「放っといて直るかよ。大家にでも言えばいいじゃんか」
            「まあ、もう出て行くんでね」
            先週から猛暑日連発だってのに、何を呑気な。こいつは今、ここで寝泊まりしてるはずだ。昼間の熱をたっぷり溜め込んで、このビルのコンクリートの壁は夜も容赦無く室内に熱気を放ち続けてる事は想像に難くない。
            「その前に熱中症で死ぬぞ」
            「これがまた死なないんだな。なんでか」
            もう慣れたんじゃないですかね、と鼻で笑う。相変わらず人を食った物言いをする男だ。取り敢えず、俺はどかっとソファに腰を下ろして足を投げ出した。

            「すいませんね。お忙しいところをわざわざ来て貰って」
            と、奴が事務机に軽く腰掛ける。気を使ったのか、窓は全開にしてくれたが、風はほとんど入って来なかった。喧しい蝉の声が遠くに聞こえる。
            「ま、一応これも仕事みたいなもんだからな。依頼があればどこにでも行くよ」
            数日前、久しぶりにこいつから連絡があって、何かと思えば不用品の引取の依頼だった。意外な気がしたが、そう言えば、こいつがそういう事を俺に言って来たのは初めてかもしれない。
            「本業の方はどうなんですか? ハウスクリーニングでしたっけ」
            煙草を取り出しながら、奴が訊いてくる。
            「ああ。まあ規模は小さいけど、一応手広くやってるよ」
            俺は以前やってた便利屋の仕事を畳んで、今は小さな清掃会社を経営している。危ない橋を渡るような仕事からはきっぱり足を洗って、堅気の仕事に勤しんでいるのは、こんな俺でも守るものができちまったって事だ。
            「大したもんですよねえ。俺にはできないっすよ」
            煙を吐きながら、奴がそう嘯く。
            いつもと同じように見えても、やはり、前とはどこか空気が変わってしまっている事を感じる。元々、無闇に他人を寄せ付けない雰囲気の奴だという事は分かっていても。少し会わないうちに、こいつに何があったんだ。
            変わってしまった。気になって、何か言おうかと思ったが。でも今それを言っても、もう仕方が無いような気がした。
            俺なんかが何を言っても、もう。
            俺は軽く息を吐いて、じゃあやるか、と立ち上がった。

            改めて部屋を見回す。
            まだ物があるにも関わらず、随分とがらんとした印象を受ける。
            ここには前にも何度か来た事があったが、その時はいつももっと雑然としていた。大して広くもないスペースに、事務机や安っぽい二人掛けのソファが置いてあって。部屋の隅には小さな流しとトイレが一つ。書類棚に書類や資料のファイルらしき物が雑多に並び、灰皿はいつ見ても吸殻で山盛りだ。キャビネットもあるが、生活用品はそこに突っ込んでるって感じだった。
            まあ男が一人でやってる事務所だからな。こんなもんだろうと思っていた。
            それが今は、家具類以外の書類や小物はすっかり無くなっていた。全部処分したらしい。すっきりと言うよりは、どこか、寂れた感じがした。
            俺はそれもなるだけ気にしないようにして、一つひとつ家具類の状態を確認して査定していった。事務机と椅子、書類棚、小型の冷蔵庫と、ソファとテーブル、洋服掛け、キャビネット。
            それを、後ろから奴がなんとなく見ていた。



            一通り見終わった後、ざっと見積もって手帳に書き留める。
            物量自体はそう多くもないし、二人でやれば楽に運び出せるだろう。このビルにエレベーターがあったらの話だが。
            いくらですか、と奴が財布を出しながら言って来たが、いらない、と俺は答えた。
            「お前から金取る気無えし」
            そもそも知り合い相手に、こういう依頼で儲けようとは思ってない。便利屋は辞めたが、昔からの付き合いの奴に頼まれれば、大抵の事は引き受けるようにしているだけだ。不用品の引取程度なら、仲介してやれる伝手くらいはまだある。
            「いや、引取料ってもんがあるでしょうよ」
            「いらねえんだよ。どっちかって言うと買取だから。俺が金を払う」
            すると奴は憤慨して、
            「いりませんよ。なんで俺があんたから金貰わなきゃならないんですか」
            こいつならそう言うだろうと思っていたが、予想通りだった。
            どちらが金を払うかで軽く言い合ったが、結局、互いの取り分を相殺してチャラにするという事で落ち着いた。俺は不本意だったが、奴も言い出すと梃でも動かない。その上、やっと話が付いたのにまた下らない事を言って来る。
            「でも普通、引取料の方が高いですよね。じゃあ俺の足りない分は、とびきり上等の強請りのネタでも教えましょうか」
            「お前まだそんな事やってんのかよ。いい加減にしとけよ」
            今度は俺が憤慨して声を上げた。大体、俺は堅気になる前からそういう事はやってない。分かってんだろ、と睨むと、奴は悪びれる様子も無く、
            「冗談ですよ。もう全部手放しましたから。お陰で手持ちのネタすっからかんですよ」
            と軽く両手を挙げて見せた。
            それはこの部屋を見れば分かるが。相変わらず心の内は計りきらせない。
            そもそも、こいつはまともな仕事は何一つしてない。ここも個人事務所と謳ってはいるが、どんな商売で生計を立てているのか分かったもんじゃない。
            俺と知り合ったのも、数年前にこいつがやばい奴らの抗争に巻き込まれそうになってるところを、たまたま助けてやったのがきっかけだ。その時も散々説教してやったのに、のらりくらりと躱すばかりのこいつの態度に腹が立って、もうこれっきりだと思ったものだ。
            ただ、俺はどこかこいつに妙な既視感を覚えた。それだけが気になった。
            こいつはこいつで、どうやら俺が助けてやった事に恩を感じているらしく、以来なんとなく付かず離れずの付き合いが続いている。俺がいくら言っても、こいつはずっと裏の稼業ばかりやってやがったが。
            でも、全部手放したという事は、足を洗う気になったんだろうか。
            とにかく、引取料の事は気にするな、と言ってやった。
            「いや、こころがさ。引取った物はどうせ後で売るんだから、ちゃんと金払ってやれって聞かねえからさ」
            すると、奴は妙に納得した顔になって、
            「ああ、あのテンションの高い嫁さん」
            と軽く何度か頷いた。ならしょうがない、と思ったらしい。
            俺は七年程前にこころと結婚して、こいつも何度か会った事がある。思い出したのか、奴は目を細めた。
            「元気なんですか? 相変わらずテンション高いんですか?」
            「ああ高いよ。ガキ四人もいるからな。毎日キレまくってるよ。」
            目に浮かぶようですよ、と奴がにやつく。俺は毎日、目の当たりにしてるけど。
            「しかも全員男だし。毎日戦争だよ」
            でも実は、こころは五人目も欲しがってる。それを言うと、さすがに奴もあんぐりとした顔をした。
            「どうしても女が欲しいんだってさ」
            と言ってやると、
            「ああ、そういう事ですか。じゃあ、まあがんばってください」
            だとよ。他人事だと思って、可笑しそうに含み笑いをしてやがる。そんなところは前とちっとも変わらない。
            いつもなら、いちいち癪に障る奴だ、と思うだけなのだが、この時ばかりは訊いてやりたくなった。
            「お前はどうなんだよ」
            「は?」
            「女だよ。お前の」
            こんな俺でも、まともになれたんだ。守るものができれば、自分を変えられる時もある。こいつも、ここを畳んで女と一緒にでも出直してくれりゃいいんだが。
            「女? どの女の事ですか?」
            肩を透かすようにさらっと返しやがった。でもこいつがそれほど遊び回ってる訳じゃない事は分かっている。それでも前に聞いた話を思い出して、
            「前にデリヘルで馴染みの女がいるとか言ってたじゃんか」
            そう言ってやっても、どこ吹く風だ。
            「ああ。まあ馴染みってだけで、別に付き合ってた訳じゃないですからね」
            「あと、なんだ、幼馴染だっけ? ガキの頃から仲良い女もいるんだろ」
            確か少し前にキャバクラの働き口を紹介してやったとか言ってたような気がする。長い付き合いの女で、結構親しそうな印象を受けた覚えがある。
            一瞬、奴から表情が消えた気がした。俺は思わず言葉を止めて奴を見た。奴は、何気なく目を逸らし、
            「どっかに消えちゃいましたよ」
            と、また煙草に火を点けた。
            それきり沈黙が続く。
            俺は、何も言えなくなっていた。

            出会った頃から、こいつはいつも人を食ったような、生意気な醒めた瞳をしていた。そしてその奥に、弛みの無い真っ直ぐな光を宿していた。
            俺が知る限りでも、こいつはしょっちゅう厄介事に巻き込まれてた。それも自分のせいではなく、仕事柄か何か知らないが、やれ依頼人だの何だのと、必ずいつも誰かのために。自分自身の事でもないのに、他人のために駆けずり回って、結果、深入りし過ぎてやばい奴らに目を付けられて。
            一時、そんなこいつの気質を奴らの幹部の一人にえらく気に入られて、しつこく勧誘されてた事もあったな。こいつはずっと逃げ回ってたけど、結局振り切ったんだっけ。
            誰ともつるまず、誰にも飼われず。
            窃盗や恐喝、暴力沙汰の犯罪に身を窶していても、物ともせず。こいつは、生来は真面目な性分で、その気になれば、本当は堅気の世界でも充分やっていける奴だ。こいつがこんな生き方をしてるのは、こいつ自身のせいじゃない。
            それが、今。
            思わず、この俺までも気圧されるような、深い闇。隠そうとしても隠しきれていないそれが、こいつの瞳の奥を暗く覆い尽くしている。
            今日、久しぶりに会って、瞳を見た瞬間に分かった。
            こいつは、人として越えてはいけない一線を越えたんだと。
            少し会わないうちに、こいつの瞳は、そんな瞳に変わっちまってた。
            どれだけの不遇に塗れても、あれ程強い光を宿していたのに。
            今はもう。もし俺が本気で問い詰めたとしても、何も答えようとしないだろう。
            一体何があったんだ。
            だから、ここを引き払って、出て行く事にしたんだろう。
            もう二度と、ここに戻る気も無く。
            誰に告げる事も無く。
            こいつはずっと、一人だったんだ。
            そんな事はずっと前から分かっていたのに。

            さっき査定していた時。
            キャビネットを開いてみた。鍵付きの、中身が見えないタイプの物だった。
            以前、俺は一度だけその中を見た事があった。
            その日、外でこいつと二人で酒を飲んでいて、そのままの勢いで夜中にここに傾れ込んだ。飲み屋を出ても飲み足らず、買って来た酒をここで飲もうとしていて、こいつがコップを出すためにキャビネットを開けた時だった。
            ほんの一瞬だったが、それが見えた。
            奥に段に立てられた、黒い小さな板状の物と、写真らしき物が三つ。
            たぶん位牌と、遺影だと思う。
            確か、こいつはまだ物心が付くか付かないかくらいのガキだった頃に両親が事故で死んで、祖母さんに育てて貰ったはずだ。その祖母さんも、十代の頃に病気で死んだって、前に言ってたと思う。
            こいつも酔っていたんだろう。誰にも中を見せていなかったのに、つい扉を開き過ぎて。でもすぐに気付いて、何事も無かったかのように扉を閉めた。
            そして、飲み直しましょう、と笑い、テーブルに戻って来るとコップに酒を注ぎだした。
            俺は、何も気付いていない振りをした。
            こいつは、少しだけ黙って俺を見たが、またすぐ元に戻った。
            その夜は、朝まで下らない馬鹿話をして飲み明かした事をよく覚えている。
            そのキャビネットが、空になっていた。
            何も無い、このがらんとした部屋。
            まさか、こいつはあれまで処分しちまったっていうのか。
            思わず呆然とキャビネットの中を見ている俺に、奴が言った。
            「大丈夫ですよ」
            振り返った時は、奴はもう俺に背を向けて窓の外を見ていた。



            灼熱の階段を、二人で荷物を担いで、四階から一階に何度も往復した。
            互いに文句を言い合いながら汗だくで一階まで降ろすと、表に停めておいた軽トラに積み込む、を繰り返す。途中で、俺も奴も滝のように流れる汗を拭う事を諦めた。二人ですべて運び出して積み込みを終えると、ちょうど昼飯時を過ぎた頃だった。
            「おい、飯行こうぜ」
            親指でちょいちょいと繁華街の中心の方を指して見せた。
            「は? 行かないっすよ」
            当然のように奴が答えた。いちいち突っかかる奴だ。
            「なんでだよ。お前だって腹減ってるだろ」
            空腹と猛烈な喉の渇きは俺と変わらないはずだ。なのに奴は真っ平と言わんばかりに断りやがった。
            「嫌ですよ。あんたに奢られるなんて」
            「奢るなんてひと言も言ってねえだろ」
            「俺が金受け取らなかったから、せめて飯ぐらい奢りたいって顔に書いてありますよ」
            「お前なあ」
            思わず舌打ちした。こいつと喋ってると、たまに本気で苛々してくる時がある。
            「そこまで分かってるなら、黙って奢られろよ」
            つい、むきになって突っ込んだが、奴は軽く首を振って、
            「いいや。その気持ちだけで充分ですよ。因幡さん」
            ありがとうございます、と頭を下げた。
            こいつが俺に向かってこんなに素直に礼を言うなんて。
            やっぱり、ここにはもう戻って来ない覚悟ができてるんだな。
            東京で、最後に会う人間として、俺を選んでくれたのかな。
            こいつの軽口に苛つかされるのも、これが最後になっちまうのか――。
            頭を上げた時、奴は、少しだけ以前の瞳に戻っていた。いつものように薄笑う。
            「世話になりました」



            軽トラを走らせながら。
            ミラーに映った、手を挙げて俺を見送る奴の姿が目の奥に焼き付いている。
            奴を見ていると、若い頃の自分を思い出す。
            あの既視感。俺はそれが何かずっと考えていて、気付いた。
            奴は、若い頃の俺に似てる。
            昔の俺にそっくりだと思う。無茶ばかりして、しょっちゅう悪さをして。いや、奴は俺よりずっと性質の悪い事ばかりやってたか。
            ずっと、居場所を探して。
            でも、俺にはこころがいたから。父親はろくでもない男だったが、母親もいつも見守ってくれていた。
            奴には、誰もいなかった。親も、家族も、恋人も。誰も。
            だからこそ俺が少しでも力になってやれたらと思っていたんだ。
            俺だって、もしこころや母親がいなかったら。いつか、今の奴と同じ瞳をするようになっていたかもしれないんだ。
            そう思うと、少し、胸が痛んだ。
            何が奴の瞳をそんな風にしちまったのかは、もう知りようもないが。
            これからどこに行ってどうするつもりなのかも、俺には言わなかったが。
            どこで何をしていてもいいから。
            あいつには、ただ、生きていて欲しいと思った。





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            「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #6
            2015.10.08 23:00
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              7月27日(月) 早朝 東京都T区


              暑い。まだ夜も明けきっていないのに暑くて堪らない。
              窓を開けていても汗だくで、気持ちが悪いを通り越して気が遠くなる。
              その割には、眠りに落ちる訳でも無く、ただうとうとと時間が過ぎるだけだ。
              エアコンを修理するか買い替えるかすれば、一瞬で解決する事は分かっている。大家に言えば、その日のうちに手配してくれるだろう。
              なぜそれをしないのか。
              ただ面倒なだけ。それだけだ。
              たとえこの部屋の暑さが解消したとしても、何も変わりはしない。

              どうでもいい事をぼんやりと考えていても一向に眠くはならない。
              このがらんとした事務所のソファに横になったのは夜半過ぎだったが、今日もほとんど眠る事はできなかった。無理に目を閉じても、寝入る端からすぐに悪夢が襲ってきて跳ね起きる、を繰り返す。眠れない夜ばかりが続く。
              睡眠不足がこうも続くと体力が果てしなく落ちて行く。
              テーブルに置いておいたペットボトルに手を伸ばし、とにかく喉を潤すが、生温い水は飲んだ傍から汗になって噴き出してくる。
              諦めて起き上がり、タオルでその汗を拭く。
              あれから。あの日から、まともに眠った記憶が無い。
              窓の外を見ると、濃い青色に夜明け前の空が染まり始めていた。
              立ち上がり、窓に近付く。
              眼下の繁華街はいつもと何も変わらない。眠らない街。
              ここに流れ着いてから何年経っただろう。
              こんなところでも、長く居着いてしまったな。
              こんなところでも。
              俺はここから見る眺めが、好きだった。
              それも今日で見納めだ。
              見上げると、夜の終わりに薄れていく星が俺を見ていた。



              いつものように、外に出た。
              いくつかのコンビニや売店を回り、複数の新聞を買い込む。あまり目立たないように、一つの店では大量に買わない。ついでに買った水と少しの食料を持って事務所に戻り、新聞に目を通していくと、それが目に入った。
              ――発見されたか。
              選りに選って昨夜か。こうなると因縁めいたものを感じる。
              そうすると決めたあの日から、今日まで。
              長かった、と思う。

              死後一週間から十日、か。もうそんなに経ったのか。
              さっさと始末するものは始末して、早くここから出て行こうと思っていたのに、随分時間が掛かってしまった。
              あいつはどうしているだろう。あの時、あそこで別れたきりだが、うまくやってるのだろうか。あの姉貴とも。
              じきにこの記事にも気付くだろうが。あれ以降、あいつも事の成り行きは気になっているはずだ。
              あの刺すような冷たい眼差しを思い出す。俺は思わず軽くため息を吐いた。
              あいつも大した玉だったよ。俺なんかよりよっぽど性質が悪い。防犯カメラの避け方や証拠の消し方も慣れたもので、最大限、自分の痕跡を残さない方法も知り尽くしていやがった。しかもそれを、長年自分で考え抜いて実践して体得してきたのだから、空恐ろしくすらあったよ。俺が教えてやった事なんて、些細な事だったと思う。あの調子だと、いつもあくまで事故に見せ掛けるようにして、ずっと誰にもばれずに成功させてきたんだろう。
              それでも、今回。あそこまでやるのは初めてだったらしい。
              それは俺だって、これまで散々悪事に手を染めてきたが、ここまでの事をした経験は無かった。
              両手の掌にできた肉刺の跡を見る。もうほとんど治ったが、あの一瞬だけで、ここまでになるとは思っていなかったよ。

              ――もう、よせ。
              「それ」はもう死んでる。
              これ以上叩きのめしても、「それ」はこれ以上死なない。

              どれほどの時間そうしていたのか。数分か、数十分か、数時間か。記憶に無い。
              何か喚いているあの男を蹴り上げ、首から下を角材で殴っていった。頭を殴れば、下手をすると一撃で絶命する。
              そんなにあっさり死なせてなどやらない。
              最期まで、苦しむだけ苦しませてやらなければ意味が無い。
              何も言わなくても、あいつも俺と同じやり方をしていたよ。いや、俺より凄まじかった。
              俺の方が先に手を止めていたと思う。気付いた時は、俺もあいつも激しく息を切らせたまま、もう動かなくなった「それ」を見下ろしていた。
              俺が腹の底から全身頭の中まで真っ赤に燃え尽くしていた事を自覚し始めた時、あいつが再びそれを握り直して振り降ろしだしたのを見た。
              もうよせ、と言ってやろうと思ったのに、俺は黙って見ていた。
              誰にも見られない場所で、絶対に逃げられない状況にして、吐かせるだけ吐かせて、心置きなく手を下し、気が済むまで。
              あいつはいつまでも殴り続けていやがったよ。
              あいつの姉貴も気の毒な女だ。あんな弟がいたんじゃ一生結婚できないだろう。
              いや、それどころか――。
              俺はそれ以上考えるのを止めた。そんな事は、俺が考える事じゃない。



              今日は因幡さんが来る。そしてここに残った物を全て引取って貰う。
              なんだかんだ言っても、世話になったな。あの人は、なんであんなに俺の事を気に掛けてくれてたんだろう。
              俺はあの人が思ってる程、大した人間でも無いのに。
              あの人に可愛がって貰える資格なんて、ずっと前から無かったのに。
              まるで叔父か歳の離れた兄貴みたいだったよ。
              でももうこれ以上、あの人を余計な事に巻き込む訳にはいかない。
              俺なんかのために。
              最後くらい、迷惑を掛けないように後腐れ無く別れたい。



              ここにある物は、全部捨てようと思っていた。
              それでも。
              ほとんど空になった事務机の引き出しから、それを取り出した。
              どうしても処分できなかった、一枚の写真。
              成人式の時に、頼まれて俺が撮ってやったんだ。晴れ着姿で嬉しそうに笑ってやがる。
              あの頃、俺は一人でせこい会社を立ち上げて、一応まともな商売をしようとしてたんだったな。見てくれだけは一人前の面をして。真面目にやってりゃなんとかなるかと思って、経営が傾いても必死で踏ん張ろうとしたけど。結局すぐに行き詰まって。世の中そんなに甘く無かったって事だ。
              赤塚さんが貸してくれたあの倉庫の事は、忘れていたはずだった。でも、この俺でも、あんな事をやれる場所の心当たりなんて、あそこしか無かったんだ。
              それで久しぶりに探りを入れたら、あれから何年も経ってるのに、相変わらず管理が杜撰で。そこに付け込んじまって、赤塚さんには悪い事をした。まあ、あの人に取ったら、こんな事は屁でも無いかもしれないが。
              この事務所を借りる事ができたのも、元を辿れば赤塚さん絡みだったのに。
              恩を仇で返しちまったな。ここから消える事くらいしか、俺にできる事はもう無い。情け無え話だ。

              手の中に残る褪せた時間の面影。
              俺が撮ったそれが一番きれいに撮れてるからって、わざわざプリントして。記念に、て言ってよこしたんだ。
              『ありがとう』、と微笑んで。
              その時は、これを貰って俺はどうすりゃいいんだと思ったが。ここに移ってからも、なんとなく、ずっと引き出しの中に入れっ放しになってたよ。
              実家を追い出された時とおんなじだ。
              会社が潰れてしばらくして、ばばあが死んだ後も一人で住んでたあのアパートの部屋から出て行く時、どうしても捨てて行けずに持ち出したそれは、ずっとキャビネットの奥に入れてあった。
              今も、また。俺は、それをまとめて突っ込んだ小さなバッグに、その写真も一緒に入れて、最低限の物だけを詰めたリュックの一番奥に押し込んだ。
              少し前に、一度だけ、実家のあった場所に行ってみた事がある。
              あのぼろアパートはもう取り壊されて、小奇麗なマンションになってた。いくつか窓に明かりが点いていて。そこは知らない誰かの帰る場所になっていたよ。
              分かっていた事なのにな。今の俺には、この事務所だけしか無いって事は。
              でも、それも今日で終わりだ。
              昨夜あの男が発見されたのなら、タイミングとしてはぎりぎりだろう。遅過ぎるくらいだ。
              いい加減身軽になったものだが、これからどこに行こうか。
              一瞬、心の中に、晴れ渡る青い空と緑の大地が映った。
              今更、なぜ。今の俺に絶対に相応しくないそんなものが心に浮かぶのか。
              俺がまだ一度も見た事が無い、その風景。
              それを話して聞かせてくれたのは――。
              窓の向こうには、それと似ても似つかない猥雑な街。
              毎晩繰り返し見る悪夢が頭を過ぎる。
              鮮明に残るその記憶を忘れる事は、永遠に無い。
              それでも。
              今だけは。夜が明けるまでの僅かの時間でいい。その風景を思い出していたい。
              俺は、白々と明けて行く遠い空を、ただ眺めていた。





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              「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #7
              2015.10.13 22:00
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                8月14日(金) 夜 東京都M区


                窓辺に立って外を見ると、雲が空を覆っていた。
                でも、雨が降らなくて助かったよ。まだまだ暑いけど、猛暑のピークも過ぎたみたいだし。
                カーテンを閉めてキッチンの椅子に座り、テーブルに置いてあったコーヒーの残りを飲み干した。
                とにかく、無事に引っ越しできて、ほっとひと息だ。
                今はまだ全部片付け切れてないけど、先月の終わりから二週間でここまで漕ぎ着けたんだから、我ながら上出来だと思う。

                やっぱり姉さんも不安だったんだろうな。あの日、これから俺と一緒に暮らそうって言ったら、少し迷ったみたいだけど、決心してくれて本当によかった。
                瑛次が傍に居てくれたら安心だからって、言ってくれた。
                それから二人で部屋を探し始めて。割と早い段階でここを見付ける事ができたのはラッキーだった。きっと、こういうのも縁なんだと思う。
                ここの最寄駅からは姉さんの勤め先に電車一本で行けるし、俺の職場にも近い。駅から少し歩くけど、マンションの十一階だから眺めもいいし。
                ただ、家賃がこの辺りの相場より安めだったのが気になって、ちょっと調べてみたら、どうやらこの建物には何部屋か訳有りの部屋があるみたいだった。道理で条件がいい割に空き部屋が多いはずだよ。でも、この部屋自体には過去に何も無かった事が分かったから、ここに決める事にした。少し古めの建物だし、何年も建ってたら色々あるのは仕方が無いよ。もし嫌になったらまた引っ越せばいいんだし。気にする事は無いと思う。内見したら部屋も広くて全然きれいだし、姉さんも気に入ってくれたから。話し合って、すぐに借りる契約をした。
                まあ、元々俺の荷物はそんなに多くないとは言え、いよいよ実際に引っ越すとなるとそれなりに荷造りはしなきゃならないから。意外と早く話が進んでちょっと焦ってしまった。無い時間をやり繰りして、どうにか間に合わせられてよかったよ。
                それで、ちょうど昨日から姉さんの仕事がお盆休みに入って、俺の週休に合わせて、今日。
                朝から車を借りて、姉さんが住んでたアパートと俺の職場の宿舎を回って荷物を積んで、昼過ぎには全部ここに運び込む事ができた。さっきまで二人で荷解きしてて、姉さんも疲れてきたみたいだから、続きはまた休みの日にでもしようって事になって。
                姉さんは自分の部屋でもう寝ちゃったみたいだ。俺も少ししたら寝なきゃな。
                取り敢えず今は両隣が空き部屋だから。騒音とかがうるさくないからいいけど、戸締まりだけはしっかりしておこう。



                玄関から戻って来て、改めて家の中を見回す。
                ちょっと広めの2DK。いい部屋だと思う。
                今日からここで姉さんと暮らせるんだな。俺がずっと待ち望んでた事だ。
                昔、俺が姉さんと一緒に居られたのは小学生の頃までだった。
                小学五年の時だ。あいつらが離婚したせいで、俺は姉さんと別々に暮らさなきゃならなくなった。
                物心が付いた頃にはもう、あいつらはいつも喧嘩ばかりしてるのが当たり前で。それで馬鹿みたいに揉めた挙句、姉さんは父親に、俺は母親に引き取られた。
                あの屑みたいな父親の暴力とギャンブル好きが原因だったけど、母親も酷いものだったよ。引き取った自分の息子をまともに育てようともせず、離婚が成立したらすぐに俺を親戚に預けて、自分一人でさっさと遠くの地方に行って勝手に暮らし始めたんだから。
                俺の事を、父親にそっくりだからって嫌ってた事は分かってたけど。
                それなのに母親がなんで俺を引き取ったのか、俺は理由を知ってる。
                父親が離婚を承諾する条件が、姉さんだけを引き取る事だったからだ。
                あいつが何を目的にそう言ってるのか分かってた癖に、あの母親はまだ中学生だった姉さんを生贄に差し出して、自分だけ逃げ出したんだ。
                それから俺は散々親戚をたらい回しにされて。姉さんは父親の暴力に耐え続けさせられて。
                あんな奴らを親だなんて思いたくない。
                あの時、俺たちはまだ何もできない子供だったのに。

                だから、姉さんとはずっと連絡を取り合って、あいつらに見付からないところで時々会ったりしてた。お互いに慰め合って、励まし合って。俺たちは俺たちなりに、現実の逆境に立ち向かってきたんだ。
                俺はずっと姉さんを尊敬してた。早く大人になって、姉さんを支えてあげられるようになりたかった。だから高校を出てすぐ就職したんだ。そのために、勉強だけは一生懸命やった。肉体的にも精神的にも厳しい仕事だけど、公務員ならまだ収入は安定してる。それに、世のため人のためになる仕事だから、体裁は間違い無くいい。姉さんに、誇りに思って貰えるようになりたいって、それだけを考えてがんばって。どうにかこうして人並みの生活ができるように、なれた。

                だけど。
                子供の頃から、姉さんのために必死で努力してきたけど、心配になる事もたくさんあった。
                姉さんが高校生になって、初めて彼氏ができたって聞かされた時は、ものすごくショックだった。どんな奴か確かめずにはいられなくなった。
                そしたら、そいつは真面目そうな顔をして、影では不良とつるんで遊び回ってるような奴だった。ちょっと後を尾けたらすぐに分かったよ。
                俺はまだ中学生だったけど、あんな事をしたのはあの時が初めてだったな。
                そうやってそいつの正体を知って、頭に来てちょっと嫌がらせをしてやったら、そいつはすぐに逃げ出しやがった。根性の無い奴だったよ。姉さんはなんで振られたのか分からなくて泣いてたけど。あのまま付き合ってたら、もっと辛い目に合わされてたかもしれない。まだ早い段階で別れさせておいて正解だったと思う。
                ただ、その時は結果的にそれでよかったと思ったけど。
                俺の中の不安な気持ちはずっと消えなかった。
                苦しくて、胸がざわつくような不穏な気持ちがどんどん大きくなっていくのを止められなかった。
                だから、俺はそれからも姉さんに彼氏ができるたびに心配になって、相手の男の事をよく調べる事にした。
                姉さんが誰と付き合っても構わない。そいつがいい奴だったら。そいつと付き合って姉さんが幸せになるなら。俺はそれでよかったんだ。
                でも。誰一人、姉さんに相応しい男はいなかった。
                姉さんを不幸にする奴は俺が許さない。
                だから、俺は――。



                壁に掛けた時計が目に入る。
                もうこんな時間か。つい嫌な事を思い出してたら目が冴えてしまった。
                だめだな。もう考えないようにしよう。これから姉さんと二人で新しい生活が始まるっていうのに、そんな昔の事を思い返してる場合じゃない。もっとこれからの事を考えなきゃ。
                なんとなく気になって、姉さんの部屋のドアを見た。
                姉さんはどう思ってるのかな……。
                中からは物音ひとつせず、すっかり寝入ってるみたいだ。
                なんだか、ほっと気持ちが落ち着く。何も言われなくても、姉さんが傍に居るって思うだけで、こんなに心が安らぐんだな。
                さっき姉さんが風呂に入ってる間に、部屋の中にあれを仕掛けておいた。もう必要無いかもしれないけど、一応念のために。元々姉さんが住んでたアパートの分は、気付かれないように、今日、そっと回収しておいた。余計な物は残して行かないに限る。

                さあ、明日はまた出勤だ。資格の勉強は、今日はもういいや。
                起こさないように、少しだけ姉さんの寝顔を見て、今夜はもう休む事にしよう。
                おやすみなさい。





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                「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #8
                2015.10.26 21:00
                0
                  8月31日(月) 未明 北関東N市


                  ――走っていた。
                  今日に限って野暮用で辺鄙なところにいたんだ。
                  畜生。心のどこかで、そんな予感は確かにしていたのに。
                  時計を見ると、電話を受けてから二時間以上経ってる。もう夜中だ。
                  何度か送った事がある道のりを走り、角を曲がると、あの三階建てのマンションが見えた。
                  裏の階段の方がエントランスより近い。急いで裏口に回り込むと、中から男が飛び出して来た。出し抜けに肩がぶつかる。向こうもかなり慌てているようだった。避け切れずに思わず立ち止まった時、一瞬だけ顔が見えた。
                  その男は徒ならない形相で、振り向きもせず無言で走り去って行った。
                  僅かにその背中を見送ったが、すぐに階段を駆け登る。
                  三階、一番奥の部屋。外から見えた時、明かりは点いていた。
                  ドアに飛び付くと鍵は掛かっていない。ノックもせずに思い切り開け放ち、中へ足を踏み入れた。
                  次の瞬間、血に塗れて倒れている女の姿が目に飛び込んで来た。
                  「――!」
                  名を叫び、抱き起こす。
                  腹から血が溢れ、腕にも無数の傷が血を噴いていた。
                  何があった。誰にやられた。
                  見ると、その手に刃物が握り締められていた。
                  閉じていた瞳が開いた。息はある。傷はそこまで深く達していないのか。
                  即座に自分の携帯を取り出し、助けを呼ぼうとしたその時、細い腕が縋り付いて来た。振り向くと、何度も小さく首を横に振っている。
                  何を言ってるんだ。今すぐ手当てを。
                  それでも。何を言っても、首を横に振り続けていた。
                  気付いた時、床に頭を擦り付けて哀願する姿を、ただ見ている事しかできなくなっていた。
                  絶え絶えに、切々と零す言葉を、ただ聞いてやる事しかできなかった。
                  恨み事はひと言も言わなかった。全て自分自身がやった事だと。
                  そいつの名も、口には出さなかった。
                  最期の望みを告げた。
                  頼った事を詫びていた。
                  どのくらいの時間が経ったのだろう。
                  後ろから身体を抱くように、両手で、刃物を握った手をその首筋に当てさせた。
                  唇が、小さく動いたのが見えた。声の無い息だけが聞こえた。
                  そして、尽き果てた想いを振り絞り、両手を引き下ろす。
                  びくりと全身が硬直し、一気に夥しい量の熱い血が溢れ出た。
                  静かに、ゆっくりと力が抜けていくのが分かった。
                  もう誰の息遣いも聞こえない。
                  初めて触れた、その華奢な身体を抱き締めたまま。
                  肩が震える。どうしようもなく。自分の無力さを呪い。
                  腕の中で、少しずつ―― 冷たくなっていく――
                  体温を感じ――



                  「瑞穂」
                  声にならない叫びを上げ跳ね起きた。
                  息が切れる。目を見開いていても、何も見えない。全身が冷たい汗にびっしょりと濡れている。
                  やがて周囲の静寂が聞こえ始めた。
                  ようやく我に返り、見回すと、横になった時と同じ、薄暗い部屋の中にいた。
                  そうだ。ここは寮の部屋だ。宿付きの仕事に潜り込み、宛がわれた狭い部屋。
                  窓の外はまだ夜明け前か。傍らに置いた水を乾き切った喉に流し込み、深いため息を吐いた。
                  あれから何か月も経ったのに、未だにこんな夢を見るのか。
                  何も考えずにただ死んだように眠りたくて、もう何日も休まず肉体労働の現場を詰め込んでいた。そうして極限まで身体を疲労させて寝床に倒れ込むようにしていたお陰で、こんな夢に叩き起こされる夜からも、しばらく遠ざかっていられたのに。もう新聞やネットニュースも、ろくに見もしていない。だが、こうして無意識にまざまざと見せ付けられる過去に、今更何をどうしようと解放される事など無いと、嫌という程思い知らされる。
                  永遠に忘れる事の無い六月のあの夜。
                  瑞穂がその前から男に苦しめられている事は分かっていた。
                  俺は二年もの間、少しずつ堕ちて行く様をただ見続けているだけで。俺みたいなろくでなしが、どうやって手を差し伸べてやったらいいのかも分からず。
                  結局俺は何もしてやれず、最期の望みをきいてやる事しかできなかった。
                  目が覚めても、繰り返し頭の中に記憶は再生され続けている。
                  再び横になる気にはなれなかった。

                  すぐ傍の床に、粉々に砕かれた携帯が散らばり、机の上には手書きの遺書が残されていた。俺は瑞穂の望み通り、自殺を疑われないように自分の痕跡を消して。
                  憔悴し切ったまま部屋を後にして裏口に降りた時、あいつと目が合った。さっきぶつかった男とは違う、全く知らない若い男がそこにいた。
                  見られた。
                  そう思った瞬間、あいつは踵を返して逃げ出した。俺は、今瑞穂の部屋から出て来たところを見られて放ってはおけず、追い掛けずにはいられなかった。それに、深夜に一人であんなところに潜んでいて俺を見て逃げたという事は、あいつにだって必ず何か後ろ暗い事があるはずだと思った。
                  しばらく追い掛けて、人気の無い路地裏でどうにかあいつを捕まえた。俺を睨むその冷たい瞳が異様に鋭かった。
                  あの時は、もしかしたらあいつが瑞穂を苦しめた張本人なのかもしれないと思って完全に頭に血が上っていた。しらばっくれて逃げようとするのを許さず俺が掴み掛かった時、あいつは一瞬だけ怯んだように顔を歪めた。
                  「あんた、ものすごい血の臭いがする」
                  何かが突き刺さったような気がしたよ。そしてあいつは、思わず動けなくなった俺の手を振り払い、俺の事も瑞穂の事も知らない、俺がぶつかったあの男を見張っていただけだと答えた。
                  俺はその言葉に衝撃を受けた。俺が瑞穂の部屋に入る時から見られていた事以上に、あいつがあの男を知っているという事に。
                  「あんたの事は誰にも言わない」
                  そう言い捨てて立ち去ろうとしたあいつに、俺はもう一度掴み掛かった。本気で揉み合い、形振りも構わず絞り出すよう懇願していた。
                  「教えてくれ。あの男は誰だ」
                  どんな些細な事でもいい。あの男の事が知りたかった。やはり俺には、あの男の尋常ではない形相が、瑞穂の自殺と無関係とは思えなかった。

                  瑛次、といったか。あいつとは、互いに深くは話さなかったな。
                  ただ目的が同じである事を確認して、それを成し遂げるためだけに手を組んだ。
                  瑞穂が何も言い残さなかった以上、俺一人であの男の全てを焙り出す事は不可能だったかもしれない。そして瑞穂がそれを望んでいなかった事も分かっている。最期まで、俺にあの男の名すら明かさなかったのはそのためだ。
                  俺には、どうする事もできなかったはずだった。
                  でもあの時、あそこであいつと出会えた偶然が、俺を動かした。
                  その後の事も、記憶は頭の中にこびり付いている。
                  いつ、どこで、何をしたのか。何を知ったのか。
                  自分が何をしたのか。



                  また眠れない夜を持て余す。明日も早いが為す術も無い。
                  ぼんやりと、東京を離れる時に持って出た、あの小さなバッグがリュックの奥でそのままになっている事を思い出す。
                  今はこうして、日雇いの土木作業や除染の仕事を求めて地方を転々としながら日銭を稼ぐ日々。できるだけ寝床を確保できる住み込みの仕事を探し、一か所には長く留まらない。もし塒を失っても、蛇の道は蛇だ。少々怪しげでも干渉されずに安く宿泊できる場所は探せばどこの街にでもある。
                  ただ以前と違い、一応違法行為には手を出さないようにしている。
                  自分のやった事が、今更消えるはずも無いと分かっていても。
                  俺は何に縋ろうとしてるんだ。何を求めて。
                  手元には、どこか部屋を借りようと思えば借りれるだけの資金はある。東京を出る時にある程度の金も作っていた。
                  でも、今はまだその時期では無いと思っている。
                  ――時期だと? 未来永劫、そんな時はやって来ない。絶対に。



                  俺は今、なんでこの街にいるんだ。
                  俺が瑞穂のためにしてやれる事はもう何も無い。
                  あの時、お前は最期に何を言いたかったんだ。
                  何も映らない瞳に、突き抜けるような青空の下の笑顔が浮かぶ。
                  俺はまだ夢を見ているのか。
                  母方の田舎が高原の街にあって、将来はそんな場所で、好きな人と一緒に小さな宿を開きたいと、昔、お前は話していたな。
                  俺はただ、遠くから見守っていたかった。
                  俺なんかでは叶えられない、お前のその穏やかな想いを。
                  でも、俺がそれを断ち切った。
                  仇を討ってやった気になっても、そんな事は何の意味も無い。
                  今の現場は今日で終わる。ここからも追い出され、またどこかへ行くしか無い。
                  また別の土地へ行って仕事を探す。今度は北へ向かうか、南へ向かうか。

                  そうして時間だけが過ぎ去って行くのか。
                  いつまでこんな生活を続けられるのだろうか。
                  いつか、警察が俺の目の前に現れる日が来るのか。
                  いつか、誰もいない知らないどこかで野垂れ死ぬのか。
                  それでも。
                  腕の中で消えていった温もり。
                  きっと、瑞穂が。
                  だから。
                  この先何があろうと。どれほどもがき苦しもうと。
                  いつか、終わりが来るまで。
                  俺は、命の火が尽きるその時まで――。





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                  「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #9
                  2015.11.03 20:00
                  0
                    9月5日(土) 朝 東京都M区


                    最近、涼しい日が多いと思う。このまま、もう夏が終わるんだろうか。
                    また台風が近付いて来てるみたいだから、気を付けないといけないな。

                    さっき仕事から帰って来たら、テーブルに朝食が用意してあった。
                    引っ越して来てから、ここでの姉さんとの暮らしもそれなりに落ち着いてきたと思う。
                    俺は今日、勤務が明けて非番の日。だけど姉さんは土曜の出勤日で、またすれ違いだった。どうしても俺の仕事の時間が不規則だから、姉さんにもこういう生活に慣れて貰うしかなくて。申し訳無いと思うけど、こればっかりはどうしようも無いし。俺自身、やっぱりもどかしいと思う時はあるけど、それは最初から分かってた事だ。
                    でも一緒に暮らしてる分、前より姉さんの近くに居れるから、安心はしてる。
                    この朝食も、俺が勤務明けの日は、姉さんが自分の出勤前に、いつも作っておいてくれるんだ。俺が帰って来たら、暖めてすぐに食べれるように。二人で暮らし始めてから、初めてそうしてくれた時は、感激して思わず胸がいっぱいになってしまったよ。いつも、本当に感謝してる。今日も美味しくいただきました。
                    休みが一緒の日は、できれば二人でゆっくり過ごしたいと思う。何も起こらない事を祈ろう。



                    お腹はいっぱいになったし、今日はこれから何をしようか。
                    仮眠は取りたいけど、やらないといけない事もあるし、と考えていて、思い出した。明日の事だ。
                    そうだ。明日、どうしようか。姉さんがまだあの男の事を気にしてるんだ。
                    未だに俺によくその話をして来る。あんまりにも不安そうに言うから、少し前に、もう諦めるように説得してみたけど、まだ無理みたいだった。
                    一応、警察に行って身元不明者の確認をしてみるか訊いてみたら、行きたいって言ってた。今度、俺と休みが合う時に行こうって話にはなってるけど、正直気は進まない。あの男がいなくなった時期と、着てた服装とかで姉さんが気付いてしまうと厄介だ。今思えば、いっその事、あの時全部燃やしておけばよかった。
                    今更そんな事を後悔しても仕方が無いけど。できるだけ先延ばしにして、姉さんが諦めるのを待つしかないと思う。
                    まあ、姉さんが知ってるあの男の情報はほとんどが出鱈目だから。何しろ正確な住所すら知らされてないんだし。万が一、携帯番号やアドレスが手掛かりになって身元が判明したとしても、あの男の嘘が露見するだけだ。そして姉さんが無意味に疑われるだけだろう。
                    そしたらまた姉さんが傷付く事になる。
                    あの男は、死んでまで姉さんを苦しめる。
                    本当に許せない。様子なんて見てないで、もっと早く始末しておくべきだった。
                    他の男も最低な奴ばっかりだったけど、一応姉さんに好意を持って近付いて来た奴らだった。
                    でもあの男は、最初から姉さんを利用する事しか考えてなかったんだ。自分の都合のいいように振り回すだけ振り回して、骨までしゃぶるつもりで。
                    それなのに。姉さんは未だにあの男を信じてる。
                    今、俺がこんなに傍に居るのに。
                    ああ、もう考えるのをやめよう。明日は俺も休みだけど、疲れてるとか勉強があるからとか言って、思い留まって貰えるように話してみよう。
                    それ以外の事は、毎日順調にやっていけてるんだ。あの男の事は、姉さんが忘れてさえくれれば解決する事だと思う。
                    それに明日、俺は本当に勉強もしなきゃならないし。選抜試験はどんどん近付いて来るし、国試の対策もある。早く次の段階に進むために必要なんだ。
                    姉さんは、そんなに慌てなくていいって言ってくれてるけど。普段の仕事も大変なんだから無理しないで、て。
                    俺は特に焦ってるつもりは無いんだけど、そんな風に見えてるんだろうか。姉さんと一緒に居られさえすれば、俺は全然平気なんだけどな。
                    でも、そう言って俺の事を気遣ってくれると、随分気持ちが楽になる。
                    そりゃあ四六時中一緒に居れる訳じゃないけど、時間が合うと、時々二人で出掛けたりもして。ただ近所のスーパーに買い物に行くだけでも、まるで夫婦にでもなった気分になれて、すごく楽しいし。
                    どんなに仕事や勉強が辛くても。嫌な事もみんな忘れられる。
                    これからずっとこんな毎日が続いて行くんだと思うと、本当に充実してるって、実感する。



                    ただ最近、一つだけ気になる事があった。
                    一瞬、視線を感じたんだ。
                    二、三日前、外で姉さんと歩いてる時、ほんの一瞬。
                    すぐに振り向いて辺りを見ても、それらしい人間は誰も見当たらなかった。
                    姉さんは気付いてなかったみたいだけど、俺は確かに視線を感じた。
                    もしかして、警察――?
                    それとも、まさかあの人が。
                    いや、そんなはずは無い。それは有り得ない。
                    たぶん気のせいだ。毎日の激務に加えて、休みの日も遅くまで勉強してるから、疲れが溜まってるだけだと思う。
                    だから、なんとなくそんな気がしただけで。
                    そう言えば昨日の朝、姉さんが、俺の顔色があまり良くないって言ってた。
                    姉さんに心配を掛けないように、もっとしっかりしなきゃ。

                    やっぱり、俺の中で、まだ何もかもがすっきり片付いた訳じゃないって事なんだと思う。もっと冷静にならないといけない。
                    今日、姉さんが帰って来るのは夕方くらいのはずだ。それまで時間はある。
                    食事の後片付けをしたら、取り敢えず横になる事にしよう。
                    勉強も煩わしい事を考えるのもその後でいい。
                    俺は少し、気が逸ってるだけだ。
                    今は何も考えずに少し身体を休めよう。
                    そうだな。身体だけじゃなくて、心も。





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                    「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #10
                    2015.11.12 21:00
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                      9月25日(金) 夜 東京都M区


                      ――瑛次。瑛次、大丈夫? ねえ、瑛次。

                      揺り起こされて、はっと目を覚ました。
                      すぐ目の前に、心配そうに俺を見詰める顔があった。
                      「姉さん」
                      俺は、いつの間にか自分がソファでうたた寝してた事に気付いた。
                      意識がはっきりしてきて、どうしたの、とともかく訊き返した。
                      姉さんが言うには、俺は酷く魘されてたらしい。さっき一緒に夕食を食べた後、食事の後片付けをしてたら、俺がテレビを見ながら居眠りし始めて。そのまま寝かせておいたら急に魘されだしたから、思わず起こしたんだそうだ。
                      「恐い夢でも見てたの?」
                      そう言われても、夢を見てた記憶なんて無い。何も覚えてない。
                      「いや、何も」
                      俺は、夢なんて見てないよ、と身体を起こした。姉さんが近くて、なんだか少し気恥ずかしかった。
                      でも本当に全然覚えてない。て言うか、思い返せば、夢なんてもう随分見てない気がする。毎日の仕事や訓練で疲れてるから、寝れる時はいつもぐっすり眠ってるし。前に夢を見たのはいつだっただろう、と思うくらいだ。
                      時計を見ると、もう十時過ぎだった。明日は出勤だった事を思い出す。
                      「大丈夫だから」
                      とにかく姉さんを安心させたくて俺はそう言った。そして、もう風呂に入って寝るよ、と着替えを取りに立ち上がろうとした時だった。
                      「ねえ、瑛次。何か悩み事でもあるの?」
                      俺の隣に座って、不意に姉さんがそう俺に訊いて来た。なんでそんな事を訊くのかと思ったら、実は、これまでも俺は、何度も魘されてる事があったそうだ。
                      初めて気付いたのは、まだ引っ越して来たばかりの頃で。気にしだすと、俺が自分の部屋で眠っている時、中から魘されてるような声が聞こえて来る事は毎日のようにあるらしい。
                      そう言われて、俺は少し驚いた。全然気付いてなかった。それを自覚した事は一度も無い。
                      一緒に暮らそうって話が出た頃から、俺が以前とは少し変わったような気がするとも言った。それでずっと心配してくれてたみたいだった。
                      俺は何て答えたらいいか分からなくて、すぐには言葉が出て来なかった。
                      姉さんは、資格や国家試験の勉強もいいけど、もし自分の事を思って無理をしてるならやめてほしい、普段の仕事もあるのに、それが俺の身体に負担になってしまってるなら、いくら試験に受かっても意味が無いから、と言ってくれた。
                      そして、もし、そうで無いなら。何か他の事で思い悩んでる事があるのか、と。
                      瞬間、どきっとした。でも顔には出さず、俺は、休める時はちゃんと休んで無理はしてないし、今、やっとこうして姉さんと一緒に暮らせるようになって、悩んでる事なんて何も無いって答えた。
                      姉さんはまだ心配みたいだったけど、俺は、少し疲れは溜まってるかもしれないけど大した事無いから、と微笑んで見せた。すると、
                      「そう? ならいいんだけど。でも辛い時はいつでも、姉さんに何でも言ってね」
                      そう言ってくれた。どうにか納得してくれたみたいでほっとする。
                      そしたら、唐突に姉さんが俺に変な事を訊いた。
                      俺が、ほんとに何も無いから、と答えると、姉さんは、分かった、と頷きキッチンの方に戻って行った。
                      俺はなぜか、なんとなく逃げるように、自分の部屋に着替えを取りに行った。



                      風呂から上がり、自分の部屋のベッドに横になる。さっき少しうとうとしたせいか、今は目が冴えている。姉さんももう自分の部屋に戻ったみたいだ。
                      『瑛次は今、誰か付き合ってる人はいるの?』
                      でもさっきは姉さんが急に変な事を訊いて来て、ちょっと戸惑ってしまったよ。そんな事を訊かれたのは初めてだったし。
                      もちろん俺は、今、彼女なんていない。姉さんにもそう答えた。
                      まあ、俺だって、これまでに何人か女の子と付き合った事はあるけど。でも別に特に好きだった訳じゃ無くて、いざという時のための練習みたいなものだったから。やっぱり、ちゃんとリードしたりエスコートしたりくらいはできるようになっておきたいと思っただけで。今ではもう、そんな必要は無くなったし。
                      俺に彼女がいて、その事で悩みがあるとでも思ったんだろうか。
                      姉さんがあんまり見当違いな事を言うから妙に焦ったけど、俺が気掛かりなのはそんな事じゃない。全然別の事だ。
                      正直、まだ測り切れてない。
                      あの視線の事だ。
                      少し前から感じてるあの視線が、日に日に強くなって来てる気がするんだ。
                      特に、外で姉さんと二人でいる時。頻度も、見られてると感じる時間も増えてると思う。前は一瞬だけだったのに。
                      最初は警察かもしれないと思ったけど。
                      一応、今でも新聞とネットニュースはまめにチェックしてる。でもあの男の事件の続報は、あれ以来一度も見てないから、捜査は進展してないはずだ。報道規制をする程の事件でも無いだろうし。
                      それに警察なら、こんなに何日も隠れて監視なんてするだろうか?
                      警察でないとすると。
                      もしかしたら、やっぱりあの人が俺を見張ってるのか?
                      でも、あの人がそんな事をするとは思えない。その理由が無い。あの人が、今更あの事件をネタに俺を強請って来るような事をするとは考え難い。そもそもあの人だって共犯なんだし、恨みがあったのは俺じゃなくてあの男に対してだ。
                      姉さんに、新しい彼氏ができたのかとも考えたけど。
                      そいつが俺と姉さんの仲を引き裂こうとしてるとか。
                      でも姉さんの様子からは、そんな感じは見て取れない。それとなく話を振ってみても反応は無いし。まあ、まだあの男の事が忘れられないみたいだけど。
                      だから姉さんの新しい彼氏とかいう事でも無いと思う。
                      じゃあ一体誰が。
                      まさか、本当にストーカーがいるのか。
                      だとしてもそれは姉さんの? それとも俺の?
                      分からない。今のところ、あの視線だけではそれが男か女かも判断が付かない。
                      俺がただ過敏になり過ぎてるだけなのか。
                      いや、それよりも。
                      今日姉さんに言われた事が気になって仕方が無い。
                      俺は毎日、何の夢を見て魘されてるんだ。



                      俺の顔が変わったって姉さんが言ってた。
                      さっき風呂場で鏡を見た時、確かに、少し顔色は良くないと思った。
                      でも最近、姉さんが俺を見る瞳も、変わって来たような気がする。
                      どことなく、怯えてるような、疑ってるような。
                      そんなはずは無い。俺がして来た事は、警察にだってばれてないんだ。
                      姉さんに気付かれるはずが無い。
                      姉さんにも、誰にも、気付かれてないはず――。

                      六月、あの人と偶然出会って。
                      きっとその時から、これまでとは何かが違ってたんだと思う。
                      誰かと手を組んだのも初めてだった。
                      そしてあそこまでの事をしたのも。
                      全ては、姉さんのために。
                      俺は確かに変わったのかもしれない。
                      でも、俺は自分がした事は間違って無いと思ってる。
                      悪いのは姉さんを苦しめた過去の男たちで。
                      姉さんを騙したあの男で。
                      あいつらは当然の報いを受けただけだ。
                      姉さんなら、きっと分かってくれる。
                      俺の気持ちを。
                      いや、姉さんに全てを話す事はできない。
                      それこそ、姉さんを無駄に苦しめる事になる。
                      俺は姉さんを守りたかっただけだ。
                      何も話せなかったとしても、きっと姉さんは分かってくれると俺は信じてる。



                      やっぱり、ストーカーなのかもしれない。
                      そうだとしたら、これまで以上に身辺を警戒しなければならない。
                      まず対象が俺なのか姉さんなのかを見極める事。仮に俺が付き纏われてるとしても、放っておけば姉さんにまで類が及ぶ可能性だってある。でももし姉さんが標的だったとしたら。そう考えただけで、腹の底からむかむかと怒りが湧いてくる。姉さんはまだ何も気付いてないみたいだけど、もし本当にそんな奴がいたら、一刻も早く正体を突き止めて、俺がこの世から消してやる。
                      姉さんが居ない時、もう一度家の中をよく調べてみよう。何か痕跡があるかもしれない。俺は何があっても、姉さんを……。



                      どこか、何かが違う気がする。
                      様々な可能性を考えてても、どれも現実離れしてるっていうか。
                      本当は視線なんて俺の気のせいなのかもしれない。
                      それが警察なら、とっくに直接俺か姉さんのところに来てるだろうし。
                      あの人だって、今更わざわざ俺のところになんて来るはず無い。
                      ストーカーにしたって、俺のただの妄想かもしれない。
                      気のせいだ。きっと、気のせいなんだ。



                      姉さんはもう眠っただろうか。
                      部屋の中は静かだ。パソコンを使う音や本のページを捲る音も聞こえない。
                      後で少しだけ、姉さんの寝顔を見に行こう。
                      毎晩、どんどん、姉さんへの気持ちが抑えられなくなって来てるのが分かる。
                      俺が何かに悩んでる事に、姉さんが気付いてくれてるのなら。
                      『何でも話してね』
                      姉さんはそう言ってくれた。
                      俺はどうすればいいんだろう。
                      このまま心配を掛け続けるくらいなら。
                      姉さんは、いつもあんなに幸せそうに笑ってくれてるじゃないか。
                      俺と暮らして、安心するって言ってくれてる。
                      でも。
                      何も、言えない。





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