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「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #5
2015.10.05 19:00
0
    7月27日(月) 午前 東京都T区


    古い雑居ビルの階段を登る。
    繁華街の片隅でひっそりと立つそれは、五階建てにも関わらずエレベーターは無い。
    徐々に重くなる足。幾筋も頬を伝う汗を拭う。
    目指す四階に辿り着くと、狭いフロアに扉が一つ。これも古い鉄製で、上方に小さい網入りガラスの窓がある。インターホンなどは探すまでもなく最初からありはしない。扉を叩く。
    どん、どん。
    少しして、扉の向こうで気配が動いた。
    「俺だ。開けろよ」
    がちゃり、と音がして、扉が少しだけ開いた。
    チェーンがかかったままの細い隙間に、見知った顔が現れる。
    「ああ、因幡さん」
    そいつは俺を見てそう言った。
    見慣れたはずの、醒めた瞳。
    その奥に宿る深い闇が、俺を見て、少し笑った。



    ――いつからこいつはこんな瞳をするようになったんだ。
    そう思う間も無く、奴がその無骨な扉を開けて俺を迎えた。中に入ると、外と変わらない熱気と湿気がむわんと襲ってくる。いや、むしろ外より暑い。
    「おい、エアコンあんだろ。点けろよ。蒸し風呂じゃんか」
    部屋の中に入れば少しは涼しいだろうと思っていたのに。面食らって思わず言葉を投げた。すると奴は、
    「壊れてるんですよ。去年の冬から」
    と事も無げに答えた。見ると、俺に負けず劣らず汗だくになっている。
    じゃあ直せよ、と無調法な蒸し暑さに軽く苛つきながら言うと、
    「放っとけば直るかと思ったんですがね。そうでもなかったですね」
    「放っといて直るかよ。大家にでも言えばいいじゃんか」
    「まあ、もう出て行くんでね」
    先週から猛暑日連発だってのに、何を呑気な。こいつは今、ここで寝泊まりしてるはずだ。昼間の熱をたっぷり溜め込んで、このビルのコンクリートの壁は夜も容赦無く室内に熱気を放ち続けてる事は想像に難くない。
    「その前に熱中症で死ぬぞ」
    「これがまた死なないんだな。なんでか」
    もう慣れたんじゃないですかね、と鼻で笑う。相変わらず人を食った物言いをする男だ。取り敢えず、俺はどかっとソファに腰を下ろして足を投げ出した。

    「すいませんね。お忙しいところをわざわざ来て貰って」
    と、奴が事務机に軽く腰掛ける。気を使ったのか、窓は全開にしてくれたが、風はほとんど入って来なかった。喧しい蝉の声が遠くに聞こえる。
    「ま、一応これも仕事みたいなもんだからな。依頼があればどこにでも行くよ」
    数日前、久しぶりにこいつから連絡があって、何かと思えば不用品の引取の依頼だった。意外な気がしたが、そう言えば、こいつがそういう事を俺に言って来たのは初めてかもしれない。
    「本業の方はどうなんですか? ハウスクリーニングでしたっけ」
    煙草を取り出しながら、奴が訊いてくる。
    「ああ。まあ規模は小さいけど、一応手広くやってるよ」
    俺は以前やってた便利屋の仕事を畳んで、今は小さな清掃会社を経営している。危ない橋を渡るような仕事からはきっぱり足を洗って、堅気の仕事に勤しんでいるのは、こんな俺でも守るものができちまったって事だ。
    「大したもんですよねえ。俺にはできないっすよ」
    煙を吐きながら、奴がそう嘯く。
    いつもと同じように見えても、やはり、前とはどこか空気が変わってしまっている事を感じる。元々、無闇に他人を寄せ付けない雰囲気の奴だという事は分かっていても。少し会わないうちに、こいつに何があったんだ。
    変わってしまった。気になって、何か言おうかと思ったが。でも今それを言っても、もう仕方が無いような気がした。
    俺なんかが何を言っても、もう。
    俺は軽く息を吐いて、じゃあやるか、と立ち上がった。

    改めて部屋を見回す。
    まだ物があるにも関わらず、随分とがらんとした印象を受ける。
    ここには前にも何度か来た事があったが、その時はいつももっと雑然としていた。大して広くもないスペースに、事務机や安っぽい二人掛けのソファが置いてあって。部屋の隅には小さな流しとトイレが一つ。書類棚に書類や資料のファイルらしき物が雑多に並び、灰皿はいつ見ても吸殻で山盛りだ。キャビネットもあるが、生活用品はそこに突っ込んでるって感じだった。
    まあ男が一人でやってる事務所だからな。こんなもんだろうと思っていた。
    それが今は、家具類以外の書類や小物はすっかり無くなっていた。全部処分したらしい。すっきりと言うよりは、どこか、寂れた感じがした。
    俺はそれもなるだけ気にしないようにして、一つひとつ家具類の状態を確認して査定していった。事務机と椅子、書類棚、小型の冷蔵庫と、ソファとテーブル、洋服掛け、キャビネット。
    それを、後ろから奴がなんとなく見ていた。



    一通り見終わった後、ざっと見積もって手帳に書き留める。
    物量自体はそう多くもないし、二人でやれば楽に運び出せるだろう。このビルにエレベーターがあったらの話だが。
    いくらですか、と奴が財布を出しながら言って来たが、いらない、と俺は答えた。
    「お前から金取る気無えし」
    そもそも知り合い相手に、こういう依頼で儲けようとは思ってない。便利屋は辞めたが、昔からの付き合いの奴に頼まれれば、大抵の事は引き受けるようにしているだけだ。不用品の引取程度なら、仲介してやれる伝手くらいはまだある。
    「いや、引取料ってもんがあるでしょうよ」
    「いらねえんだよ。どっちかって言うと買取だから。俺が金を払う」
    すると奴は憤慨して、
    「いりませんよ。なんで俺があんたから金貰わなきゃならないんですか」
    こいつならそう言うだろうと思っていたが、予想通りだった。
    どちらが金を払うかで軽く言い合ったが、結局、互いの取り分を相殺してチャラにするという事で落ち着いた。俺は不本意だったが、奴も言い出すと梃でも動かない。その上、やっと話が付いたのにまた下らない事を言って来る。
    「でも普通、引取料の方が高いですよね。じゃあ俺の足りない分は、とびきり上等の強請りのネタでも教えましょうか」
    「お前まだそんな事やってんのかよ。いい加減にしとけよ」
    今度は俺が憤慨して声を上げた。大体、俺は堅気になる前からそういう事はやってない。分かってんだろ、と睨むと、奴は悪びれる様子も無く、
    「冗談ですよ。もう全部手放しましたから。お陰で手持ちのネタすっからかんですよ」
    と軽く両手を挙げて見せた。
    それはこの部屋を見れば分かるが。相変わらず心の内は計りきらせない。
    そもそも、こいつはまともな仕事は何一つしてない。ここも個人事務所と謳ってはいるが、どんな商売で生計を立てているのか分かったもんじゃない。
    俺と知り合ったのも、数年前にこいつがやばい奴らの抗争に巻き込まれそうになってるところを、たまたま助けてやったのがきっかけだ。その時も散々説教してやったのに、のらりくらりと躱すばかりのこいつの態度に腹が立って、もうこれっきりだと思ったものだ。
    ただ、俺はどこかこいつに妙な既視感を覚えた。それだけが気になった。
    こいつはこいつで、どうやら俺が助けてやった事に恩を感じているらしく、以来なんとなく付かず離れずの付き合いが続いている。俺がいくら言っても、こいつはずっと裏の稼業ばかりやってやがったが。
    でも、全部手放したという事は、足を洗う気になったんだろうか。
    とにかく、引取料の事は気にするな、と言ってやった。
    「いや、こころがさ。引取った物はどうせ後で売るんだから、ちゃんと金払ってやれって聞かねえからさ」
    すると、奴は妙に納得した顔になって、
    「ああ、あのテンションの高い嫁さん」
    と軽く何度か頷いた。ならしょうがない、と思ったらしい。
    俺は七年程前にこころと結婚して、こいつも何度か会った事がある。思い出したのか、奴は目を細めた。
    「元気なんですか? 相変わらずテンション高いんですか?」
    「ああ高いよ。ガキ四人もいるからな。毎日キレまくってるよ。」
    目に浮かぶようですよ、と奴がにやつく。俺は毎日、目の当たりにしてるけど。
    「しかも全員男だし。毎日戦争だよ」
    でも実は、こころは五人目も欲しがってる。それを言うと、さすがに奴もあんぐりとした顔をした。
    「どうしても女が欲しいんだってさ」
    と言ってやると、
    「ああ、そういう事ですか。じゃあ、まあがんばってください」
    だとよ。他人事だと思って、可笑しそうに含み笑いをしてやがる。そんなところは前とちっとも変わらない。
    いつもなら、いちいち癪に障る奴だ、と思うだけなのだが、この時ばかりは訊いてやりたくなった。
    「お前はどうなんだよ」
    「は?」
    「女だよ。お前の」
    こんな俺でも、まともになれたんだ。守るものができれば、自分を変えられる時もある。こいつも、ここを畳んで女と一緒にでも出直してくれりゃいいんだが。
    「女? どの女の事ですか?」
    肩を透かすようにさらっと返しやがった。でもこいつがそれほど遊び回ってる訳じゃない事は分かっている。それでも前に聞いた話を思い出して、
    「前にデリヘルで馴染みの女がいるとか言ってたじゃんか」
    そう言ってやっても、どこ吹く風だ。
    「ああ。まあ馴染みってだけで、別に付き合ってた訳じゃないですからね」
    「あと、なんだ、幼馴染だっけ? ガキの頃から仲良い女もいるんだろ」
    確か少し前にキャバクラの働き口を紹介してやったとか言ってたような気がする。長い付き合いの女で、結構親しそうな印象を受けた覚えがある。
    一瞬、奴から表情が消えた気がした。俺は思わず言葉を止めて奴を見た。奴は、何気なく目を逸らし、
    「どっかに消えちゃいましたよ」
    と、また煙草に火を点けた。
    それきり沈黙が続く。
    俺は、何も言えなくなっていた。

    出会った頃から、こいつはいつも人を食ったような、生意気な醒めた瞳をしていた。そしてその奥に、弛みの無い真っ直ぐな光を宿していた。
    俺が知る限りでも、こいつはしょっちゅう厄介事に巻き込まれてた。それも自分のせいではなく、仕事柄か何か知らないが、やれ依頼人だの何だのと、必ずいつも誰かのために。自分自身の事でもないのに、他人のために駆けずり回って、結果、深入りし過ぎてやばい奴らに目を付けられて。
    一時、そんなこいつの気質を奴らの幹部の一人にえらく気に入られて、しつこく勧誘されてた事もあったな。こいつはずっと逃げ回ってたけど、結局振り切ったんだっけ。
    誰ともつるまず、誰にも飼われず。
    窃盗や恐喝、暴力沙汰の犯罪に身を窶していても、物ともせず。こいつは、生来は真面目な性分で、その気になれば、本当は堅気の世界でも充分やっていける奴だ。こいつがこんな生き方をしてるのは、こいつ自身のせいじゃない。
    それが、今。
    思わず、この俺までも気圧されるような、深い闇。隠そうとしても隠しきれていないそれが、こいつの瞳の奥を暗く覆い尽くしている。
    今日、久しぶりに会って、瞳を見た瞬間に分かった。
    こいつは、人として越えてはいけない一線を越えたんだと。
    少し会わないうちに、こいつの瞳は、そんな瞳に変わっちまってた。
    どれだけの不遇に塗れても、あれ程強い光を宿していたのに。
    今はもう。もし俺が本気で問い詰めたとしても、何も答えようとしないだろう。
    一体何があったんだ。
    だから、ここを引き払って、出て行く事にしたんだろう。
    もう二度と、ここに戻る気も無く。
    誰に告げる事も無く。
    こいつはずっと、一人だったんだ。
    そんな事はずっと前から分かっていたのに。

    さっき査定していた時。
    キャビネットを開いてみた。鍵付きの、中身が見えないタイプの物だった。
    以前、俺は一度だけその中を見た事があった。
    その日、外でこいつと二人で酒を飲んでいて、そのままの勢いで夜中にここに傾れ込んだ。飲み屋を出ても飲み足らず、買って来た酒をここで飲もうとしていて、こいつがコップを出すためにキャビネットを開けた時だった。
    ほんの一瞬だったが、それが見えた。
    奥に段に立てられた、黒い小さな板状の物と、写真らしき物が三つ。
    たぶん位牌と、遺影だと思う。
    確か、こいつはまだ物心が付くか付かないかくらいのガキだった頃に両親が事故で死んで、祖母さんに育てて貰ったはずだ。その祖母さんも、十代の頃に病気で死んだって、前に言ってたと思う。
    こいつも酔っていたんだろう。誰にも中を見せていなかったのに、つい扉を開き過ぎて。でもすぐに気付いて、何事も無かったかのように扉を閉めた。
    そして、飲み直しましょう、と笑い、テーブルに戻って来るとコップに酒を注ぎだした。
    俺は、何も気付いていない振りをした。
    こいつは、少しだけ黙って俺を見たが、またすぐ元に戻った。
    その夜は、朝まで下らない馬鹿話をして飲み明かした事をよく覚えている。
    そのキャビネットが、空になっていた。
    何も無い、このがらんとした部屋。
    まさか、こいつはあれまで処分しちまったっていうのか。
    思わず呆然とキャビネットの中を見ている俺に、奴が言った。
    「大丈夫ですよ」
    振り返った時は、奴はもう俺に背を向けて窓の外を見ていた。



    灼熱の階段を、二人で荷物を担いで、四階から一階に何度も往復した。
    互いに文句を言い合いながら汗だくで一階まで降ろすと、表に停めておいた軽トラに積み込む、を繰り返す。途中で、俺も奴も滝のように流れる汗を拭う事を諦めた。二人ですべて運び出して積み込みを終えると、ちょうど昼飯時を過ぎた頃だった。
    「おい、飯行こうぜ」
    親指でちょいちょいと繁華街の中心の方を指して見せた。
    「は? 行かないっすよ」
    当然のように奴が答えた。いちいち突っかかる奴だ。
    「なんでだよ。お前だって腹減ってるだろ」
    空腹と猛烈な喉の渇きは俺と変わらないはずだ。なのに奴は真っ平と言わんばかりに断りやがった。
    「嫌ですよ。あんたに奢られるなんて」
    「奢るなんてひと言も言ってねえだろ」
    「俺が金受け取らなかったから、せめて飯ぐらい奢りたいって顔に書いてありますよ」
    「お前なあ」
    思わず舌打ちした。こいつと喋ってると、たまに本気で苛々してくる時がある。
    「そこまで分かってるなら、黙って奢られろよ」
    つい、むきになって突っ込んだが、奴は軽く首を振って、
    「いいや。その気持ちだけで充分ですよ。因幡さん」
    ありがとうございます、と頭を下げた。
    こいつが俺に向かってこんなに素直に礼を言うなんて。
    やっぱり、ここにはもう戻って来ない覚悟ができてるんだな。
    東京で、最後に会う人間として、俺を選んでくれたのかな。
    こいつの軽口に苛つかされるのも、これが最後になっちまうのか――。
    頭を上げた時、奴は、少しだけ以前の瞳に戻っていた。いつものように薄笑う。
    「世話になりました」



    軽トラを走らせながら。
    ミラーに映った、手を挙げて俺を見送る奴の姿が目の奥に焼き付いている。
    奴を見ていると、若い頃の自分を思い出す。
    あの既視感。俺はそれが何かずっと考えていて、気付いた。
    奴は、若い頃の俺に似てる。
    昔の俺にそっくりだと思う。無茶ばかりして、しょっちゅう悪さをして。いや、奴は俺よりずっと性質の悪い事ばかりやってたか。
    ずっと、居場所を探して。
    でも、俺にはこころがいたから。父親はろくでもない男だったが、母親もいつも見守ってくれていた。
    奴には、誰もいなかった。親も、家族も、恋人も。誰も。
    だからこそ俺が少しでも力になってやれたらと思っていたんだ。
    俺だって、もしこころや母親がいなかったら。いつか、今の奴と同じ瞳をするようになっていたかもしれないんだ。
    そう思うと、少し、胸が痛んだ。
    何が奴の瞳をそんな風にしちまったのかは、もう知りようもないが。
    これからどこに行ってどうするつもりなのかも、俺には言わなかったが。
    どこで何をしていてもいいから。
    あいつには、ただ、生きていて欲しいと思った。





     file #6



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