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「 Beloved 〜 凍てつく炎 〜 」 file #8
2015.10.26 21:00
0
    8月31日(月) 未明 北関東N市


    ――走っていた。
    今日に限って野暮用で辺鄙なところにいたんだ。
    畜生。心のどこかで、そんな予感は確かにしていたのに。
    時計を見ると、電話を受けてから二時間以上経ってる。もう夜中だ。
    何度か送った事がある道のりを走り、角を曲がると、あの三階建てのマンションが見えた。
    裏の階段の方がエントランスより近い。急いで裏口に回り込むと、中から男が飛び出して来た。出し抜けに肩がぶつかる。向こうもかなり慌てているようだった。避け切れずに思わず立ち止まった時、一瞬だけ顔が見えた。
    その男は徒ならない形相で、振り向きもせず無言で走り去って行った。
    僅かにその背中を見送ったが、すぐに階段を駆け登る。
    三階、一番奥の部屋。外から見えた時、明かりは点いていた。
    ドアに飛び付くと鍵は掛かっていない。ノックもせずに思い切り開け放ち、中へ足を踏み入れた。
    次の瞬間、血に塗れて倒れている女の姿が目に飛び込んで来た。
    「――!」
    名を叫び、抱き起こす。
    腹から血が溢れ、腕にも無数の傷が血を噴いていた。
    何があった。誰にやられた。
    見ると、その手に刃物が握り締められていた。
    閉じていた瞳が開いた。息はある。傷はそこまで深く達していないのか。
    即座に自分の携帯を取り出し、助けを呼ぼうとしたその時、細い腕が縋り付いて来た。振り向くと、何度も小さく首を横に振っている。
    何を言ってるんだ。今すぐ手当てを。
    それでも。何を言っても、首を横に振り続けていた。
    気付いた時、床に頭を擦り付けて哀願する姿を、ただ見ている事しかできなくなっていた。
    絶え絶えに、切々と零す言葉を、ただ聞いてやる事しかできなかった。
    恨み事はひと言も言わなかった。全て自分自身がやった事だと。
    そいつの名も、口には出さなかった。
    最期の望みを告げた。
    頼った事を詫びていた。
    どのくらいの時間が経ったのだろう。
    後ろから身体を抱くように、両手で、刃物を握った手をその首筋に当てさせた。
    唇が、小さく動いたのが見えた。声の無い息だけが聞こえた。
    そして、尽き果てた想いを振り絞り、両手を引き下ろす。
    びくりと全身が硬直し、一気に夥しい量の熱い血が溢れ出た。
    静かに、ゆっくりと力が抜けていくのが分かった。
    もう誰の息遣いも聞こえない。
    初めて触れた、その華奢な身体を抱き締めたまま。
    肩が震える。どうしようもなく。自分の無力さを呪い。
    腕の中で、少しずつ―― 冷たくなっていく――
    体温を感じ――



    「瑞穂」
    声にならない叫びを上げ跳ね起きた。
    息が切れる。目を見開いていても、何も見えない。全身が冷たい汗にびっしょりと濡れている。
    やがて周囲の静寂が聞こえ始めた。
    ようやく我に返り、見回すと、横になった時と同じ、薄暗い部屋の中にいた。
    そうだ。ここは寮の部屋だ。宿付きの仕事に潜り込み、宛がわれた狭い部屋。
    窓の外はまだ夜明け前か。傍らに置いた水を乾き切った喉に流し込み、深いため息を吐いた。
    あれから何か月も経ったのに、未だにこんな夢を見るのか。
    何も考えずにただ死んだように眠りたくて、もう何日も休まず肉体労働の現場を詰め込んでいた。そうして極限まで身体を疲労させて寝床に倒れ込むようにしていたお陰で、こんな夢に叩き起こされる夜からも、しばらく遠ざかっていられたのに。もう新聞やネットニュースも、ろくに見もしていない。だが、こうして無意識にまざまざと見せ付けられる過去に、今更何をどうしようと解放される事など無いと、嫌という程思い知らされる。
    永遠に忘れる事の無い六月のあの夜。
    瑞穂がその前から男に苦しめられている事は分かっていた。
    俺は二年もの間、少しずつ堕ちて行く様をただ見続けているだけで。俺みたいなろくでなしが、どうやって手を差し伸べてやったらいいのかも分からず。
    結局俺は何もしてやれず、最期の望みをきいてやる事しかできなかった。
    目が覚めても、繰り返し頭の中に記憶は再生され続けている。
    再び横になる気にはなれなかった。

    すぐ傍の床に、粉々に砕かれた携帯が散らばり、机の上には手書きの遺書が残されていた。俺は瑞穂の望み通り、自殺を疑われないように自分の痕跡を消して。
    憔悴し切ったまま部屋を後にして裏口に降りた時、あいつと目が合った。さっきぶつかった男とは違う、全く知らない若い男がそこにいた。
    見られた。
    そう思った瞬間、あいつは踵を返して逃げ出した。俺は、今瑞穂の部屋から出て来たところを見られて放ってはおけず、追い掛けずにはいられなかった。それに、深夜に一人であんなところに潜んでいて俺を見て逃げたという事は、あいつにだって必ず何か後ろ暗い事があるはずだと思った。
    しばらく追い掛けて、人気の無い路地裏でどうにかあいつを捕まえた。俺を睨むその冷たい瞳が異様に鋭かった。
    あの時は、もしかしたらあいつが瑞穂を苦しめた張本人なのかもしれないと思って完全に頭に血が上っていた。しらばっくれて逃げようとするのを許さず俺が掴み掛かった時、あいつは一瞬だけ怯んだように顔を歪めた。
    「あんた、ものすごい血の臭いがする」
    何かが突き刺さったような気がしたよ。そしてあいつは、思わず動けなくなった俺の手を振り払い、俺の事も瑞穂の事も知らない、俺がぶつかったあの男を見張っていただけだと答えた。
    俺はその言葉に衝撃を受けた。俺が瑞穂の部屋に入る時から見られていた事以上に、あいつがあの男を知っているという事に。
    「あんたの事は誰にも言わない」
    そう言い捨てて立ち去ろうとしたあいつに、俺はもう一度掴み掛かった。本気で揉み合い、形振りも構わず絞り出すよう懇願していた。
    「教えてくれ。あの男は誰だ」
    どんな些細な事でもいい。あの男の事が知りたかった。やはり俺には、あの男の尋常ではない形相が、瑞穂の自殺と無関係とは思えなかった。

    瑛次、といったか。あいつとは、互いに深くは話さなかったな。
    ただ目的が同じである事を確認して、それを成し遂げるためだけに手を組んだ。
    瑞穂が何も言い残さなかった以上、俺一人であの男の全てを焙り出す事は不可能だったかもしれない。そして瑞穂がそれを望んでいなかった事も分かっている。最期まで、俺にあの男の名すら明かさなかったのはそのためだ。
    俺には、どうする事もできなかったはずだった。
    でもあの時、あそこであいつと出会えた偶然が、俺を動かした。
    その後の事も、記憶は頭の中にこびり付いている。
    いつ、どこで、何をしたのか。何を知ったのか。
    自分が何をしたのか。



    また眠れない夜を持て余す。明日も早いが為す術も無い。
    ぼんやりと、東京を離れる時に持って出た、あの小さなバッグがリュックの奥でそのままになっている事を思い出す。
    今はこうして、日雇いの土木作業や除染の仕事を求めて地方を転々としながら日銭を稼ぐ日々。できるだけ寝床を確保できる住み込みの仕事を探し、一か所には長く留まらない。もし塒を失っても、蛇の道は蛇だ。少々怪しげでも干渉されずに安く宿泊できる場所は探せばどこの街にでもある。
    ただ以前と違い、一応違法行為には手を出さないようにしている。
    自分のやった事が、今更消えるはずも無いと分かっていても。
    俺は何に縋ろうとしてるんだ。何を求めて。
    手元には、どこか部屋を借りようと思えば借りれるだけの資金はある。東京を出る時にある程度の金も作っていた。
    でも、今はまだその時期では無いと思っている。
    ――時期だと? 未来永劫、そんな時はやって来ない。絶対に。



    俺は今、なんでこの街にいるんだ。
    俺が瑞穂のためにしてやれる事はもう何も無い。
    あの時、お前は最期に何を言いたかったんだ。
    何も映らない瞳に、突き抜けるような青空の下の笑顔が浮かぶ。
    俺はまだ夢を見ているのか。
    母方の田舎が高原の街にあって、将来はそんな場所で、好きな人と一緒に小さな宿を開きたいと、昔、お前は話していたな。
    俺はただ、遠くから見守っていたかった。
    俺なんかでは叶えられない、お前のその穏やかな想いを。
    でも、俺がそれを断ち切った。
    仇を討ってやった気になっても、そんな事は何の意味も無い。
    今の現場は今日で終わる。ここからも追い出され、またどこかへ行くしか無い。
    また別の土地へ行って仕事を探す。今度は北へ向かうか、南へ向かうか。

    そうして時間だけが過ぎ去って行くのか。
    いつまでこんな生活を続けられるのだろうか。
    いつか、警察が俺の目の前に現れる日が来るのか。
    いつか、誰もいない知らないどこかで野垂れ死ぬのか。
    それでも。
    腕の中で消えていった温もり。
    きっと、瑞穂が。
    だから。
    この先何があろうと。どれほどもがき苦しもうと。
    いつか、終わりが来るまで。
    俺は、命の火が尽きるその時まで――。





     file #9



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